第14話

「水無瀬さん」


 頭上から降りかかった声に目を覚ます。体が陰で覆われた。


「ご飯、できました」


 えっ、とソファから体を起こす。気づけば部屋中が美味しそうな匂いで満ちていた。丸テーブルの上には、ご飯と、味噌汁、卵焼き、焼いたサバが綺麗に配置されていた。まさに家庭科の教科書にお手本として乗っているような和食の朝ご飯だった。


「早く起きて、作ってくれたの?」

「泊らせてもらってるので当然です。食材は朝買い揃えてきました。あと、私が早く起きたんじゃなくて、水無瀬さんが遅かっただけですよ」

「え、いま何時?」

「八時です。私はもう学校に行くので、後片付けはよろしくお願いします」


 気づけば要はすでに制服姿にマフラーを身に着けていた。そうか、高校生からすれば八時は遅い方なのか。


「わかった、ありがとう。気を付けてね」

「こちらこそ。……あ、今日は病院に行ってからなので、ここに来るのは少し遅くなると思います」

「うん。いってらっしゃい」

「いってきます」


 ドアを開けて外へ飛び出した要の背中は、どことなく緊張しているように見えた。


 見送ってから目の前の卵焼きに手を伸ばす。

 その味は相変わらずの美味しさで、僕は部屋で一人、頬を垂らして笑みを浮かべた。


**************************************************************************


 バスに揺られながら、私は昨日の出来事について思い起こしていた。

 もちろん、千賀子が倒れた場面だ。


 以前のようにアトリエに行く前に家に寄ると、一人の男が私の家から飛び出してきた。私は吃驚して身を縮めたが、男は私の存在を認めると、歩み寄ってきた。


「君、あの女の子供だよな。ちょっと、あいつやばいから、なんとかして。俺は関係ねェから!」


 私の家を親指で示しながら、慌てた様子で言った。

 そのまま駆け足で私を残して立ち去った。

 このときはまだ、男の言っていることがよくわからなかった。


 首を傾げ、とりあえず中へ入り急ぎ足で廊下を抜ける。

 先ほどの慌てた様子が頭の中で繰り返される。


 嫌な予感がした。


 恐る恐る戸を開けてリビングを覗く。

 私の視界には、血を吐いて今にも倒れそうな千賀子が映った。

 その光景に思わず目を見張る。千賀子の弱った姿なんて、人生で初めて見た。


 私は動けなかった。痛みに耐える千賀子を目で捉えたまま、じっと見つめていた。


 このまま何もしなければ、この人は死ぬのかな。


 頭をよぎった考えに、自分自身でぞっとした。

 すぐに頭を横に振り、固定電話から救急車を呼ぶ。耳にあてていくら待っても、無音が続くばかりだった。画面に目を落とす。何も表示していなかった。壊れているようだ。


 諦めて受話器を戻し、再び千賀子に目をやる。

 このまま見放すだけで人を一人殺してしまえることに気付いた。


 何でこんなこと気づいてしまったの?


 何でこんな考えばかり浮かぶの?


 千賀子はついに背中から倒れこみ、床の上で蠢き、低い声を上げた。

 それはまるで、昔の自分を見ているようだった。

 あいつに殴られのたうち回る、芋虫みたいな私。


 昔の映像を振り切るように、短く発狂した。

 ちがう、ちがう、ちがう、私はあいつとはちがう、人殺しのあいつとはちがう、私は普通なの、あいつが狂っているだけ、私は普通、普通なら、普通なら助けなきゃ。でも電話は使えない、どうしたらいい、どうする、どうすれば、この人を助けられる?


 ふと、彼の顔が頭の中に現れた。


「水無瀬さん……」


 気づけば、地面を蹴って走り出していた。


 彼はとても優しかった。突然電話を貸してくれと言った要にもすぐに応じ、様子を見に家までついてきてくれた。そんな彼に家の事情を見られることがなにより恥ずかしくてたまらなかった。思い切りスカートの裾を握りしめる。


 二人で家に戻り、今度は千賀子の元に寄った。軽く息を吐き出せるだけで、すでに体は動かせないようだった。


 やがて救急車のサイレンが耳に届く。佑のあとについて私も様子を確認しようと立ちあがった。瞬間、違和感を感じて千賀子を見返す。千賀子は要の靴下をつまみ、引っ張っていた。思わず二度見する。この人らしからぬ行動だったからだ。


 千賀子の口が動く。私は聞き取れず再びしゃがみ、その口に耳を近づけた。


 ありがとう。


 額に汗を垂らしながら、苦悶の表情で囁いた。


 目を見開いて立ち上がる。そのままふらふらと佑のあとに続いた。病院の人からいろいろと話しかけられたが、頭の整理ができずに何度も聞き返す羽目になった。


 なんだったのだろう、今のは。


 心にもやもやを残したまま、救急車は走り去った――


「終点ですよ」


 バスの車掌に声をかけられ、慌てて降りる。

 見上げるほどの大きな病院に肩をすぼめて入った。

 受付で名前を告げると、すぐに目的の病室まで案内してくれた。


 ドアの取っ手に手をかける。

 ごくりと唾を飲み込み、呼吸を整えてから、重い扉をゆっくりと引いた。

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