第13話

 アトリエのドアが開けられるまで、時刻が夜の七時であることに気付かなかった。


 ぐちゃぐちゃした周りの物をぱぱっと片づけて、玄関に駆け寄る。

 すぐ目の前には、息を切らし慌てた様子の要が立っていた。


 どうかしたのか、訊こうとした僕よりも早く、要は口を開いた。


「あの、電話、電話貸してください。家の、壊れちゃって」ずいぶん早口だった。

「でっ電話?いいけど……携帯でも大丈夫?」


 要は大きく頷く。尻ポケットからそれを取り出すと、要はすみません、と小さく断ってからボタンを操作し、すぐさま電話を掛けた。


 なにがなんだかわからないが、とにかく手招きして暖房の効いた中に入れた。

 要はずっと深刻そうな表情で携帯を耳にあてている。

 やがて繋がると、また早口でまくし立てた。


「慶台七丁目五‐二の梨谷って家です。はい、家の中でです。母親です。四十五です。床に倒れて動かないんです。呼吸……してたと思います。……あっ今電話借りてて、お願いします。はい……わかりました」


 電話を終了させ、携帯を渡される。


「ありがとうございました。今日はこのまま帰ります」

「お母さん、倒れたの」


 要は小さく頷いた。僕は迷わずドアを開け放ち、共に外に出る。

 コートすら羽織っていないトレーナーに風が吹き込まれる。


「一緒に行ってもいい?」

「走るけど……大丈夫ですか」


 おそらく僕の体力を気にしてだろうが、彼は思い切り首を縦に振った。

 二人でほの暗い路面を蹴って走り出した。


 予想はしていたが、梨谷家の前に付いた時点で体力は想像以上に擦り切れていた。ガクガクの足を抑え、乱れた息を整える。案内された家は前にも見たことのある、住宅街に立ち並ぶ家の一つだった。

 要はその中へ入っていた。その後から追って入る。


 一礼してリビングを開けた先の、異様な光景に思わず顔を背けた。大量のごみが床に敷き詰められるかのように散らばっていたのだ。開けたドアも若干重かったように感じる。  


 そしてその中心には、要の母と思われる人物が横たわり、目を閉じていた。要はその傍に寄り、呼吸の有無を確かめている。しばらくしてからこちらを振り返った。表情から察するに息はあるようだ。


 数分間、二人で声をかけ続け待っていると、サイレンの音が住宅街に到達した。二人で立ち上がり、玄関を開けて外を覗く。次第に音は近づき、家の前で止まった。要の母は運ばれ、要と救急隊員が二、三言葉を交わすと、そのまま救急車は病院の方へ走り去っていった。


「乗らなくてよかったの?」

「私が行っても、なにもできないので」

「そんなこと……」

「明日、様子を見に行きます。今日はゆっくり休みます」


 そっか、と言って彼女の自宅を見上げる。

 この広い家に女の子を一人で住ませていいものか、ふと心配になった。


「一人で、平気?」


 要は顔をあげた。だがすぐに視線を反らし、辺りに彷徨わせている。

 その目には不安の色が浮かんでいた。当たり前だろう。

 急に一人になる寂しさなら、僕だって充分に知っている。


「泊まる?僕の家」


 いえっ、思い切り頭を振った。


「ま、前にも泊らせてもらったので、まただと、迷惑なので」

「僕は迷惑なんて思ってないよ。というかむしろ、要ちゃんがいたほうが安心するんだよね。なんていうか、僕も寂しい……のかな」

「寂しい……」小さな声で復唱する。


 判断に迷う彼女の手を取った。重なった手は、冷たさを増す。


「だから、要ちゃんに来てほしい」


 はっきりと、口にした。こうでも言わないと要は来てくれないと思ったのだ。

 実際に来てほしいので、心から自然に言うことができた。


 要は一度渋ったが、やがてその手を握り返し、大きく頷いた。


「お世話になります」

「前なんて料理も作ってもらったし、お世話になるのはむしろ僕のほうかも」

「また、卵焼き作りますよ」

「本当に?やった」


 なんとなく自然にお互い手を離す。

 常夜灯で照らされたアスファルトの上を、二つの影が静かに歩いた。




「電気消していい?」

「はい」

「おやすみ」

「おやすみなさい」


 部屋が暗闇に包まれた。

 ソファに横になり、分厚い布団の中に潜り込む。

 家電の音がジーっと一定の感覚でぼやく。

 ぎゅっと目を瞑るが、いつまでたっても夢に移ってはくれなかった。仕方なく目を開ける。


 昼間、久しぶりに絵を描いたおかげで体が妙な脱力感に襲われた。


 普段左手で生活しているから疲れることなんてそうそうないだろうと高を括っていたが、必要以上に力をいれて描いたからか、痺れるような痛みがなかなか消えない。右手と思い比べて白く、守られてきた左手を顔の前に翳し、苦く笑った。


 左手に筆を握らせたときの感触が慣れていないせいか、描いている最中はどうしても気持ち悪くてしょうがなかった。違和感だらけのまま描いた絵は果たして上手くいくのかと不安の気持ちでいっぱいだった。

 思いのまま筆を動かせないこともまたストレスを生んだ。


 まだ『奇跡の右手』の感覚を思い出せない。


 布団の中に左手をしまい、また小さくため息をついた。


「水無瀬さん、起きてるんですか?」


 唐突に発せられた暗闇からの声に返事をする。


「あぁ。要ちゃんも、起きてたんだね」

「寝れなくて」

「僕も一緒」


 お互いの顔が見えるくらいまで薄く照明をつけ、要の寝るベッドの方に体を傾ける。

 要は仰向けのまま、静かに呟いた。


「私これから、どうなるんでしょう」


 そのか細い声には悲しげな色が混じっているように感じた。

 僕は今日の一連の出来事を思い浮かべる。


「お母さんが帰って来なかったらとか、考えてる?」

「そうですね、考えちゃいます。そうしたら、私は本当に一人になってしまうんじゃないかって。あんな

人がいなくなったところで、一人になったところで全然怖くないはずなのに、なのに……」


 だんだんと消えていく声に、僕はおのずと昔の自分を重ね合わせていた。


「僕も中学で事故に遭って、急に両親を亡くしたから毎日明日が不安で仕方なかった」


 自然に語りだし、自身でも吃驚する。

 要は顔だけをこちらに向け、続きを待っている。

 僕は軽く息を吸い、想いのままを口にした。


「ばあちゃんに引き取られただけ僕はマシだったと思うけど、それでも環境が変わってやっぱり戸惑ったよ。最初の頃はずっと部屋に閉じこもってたしね。あっ、でもそうだ!その時さ、毎日脅えてばっかで、明日が来るのが嫌で嫌で仕方なかった僕に、ばあちゃんがあるおまじないを教えてくれたんだ」

「おまじない?」


 要は体もこちらに向けて、興味深そうに聞いた。


「そう。僕が絵を描いていたから、ばあちゃんはこれを思いついたんだろうけど」

「うん」

「明日の笑顔を描いてみろ、って」

「明日の、笑顔を描く……?」

「うん。紙がないときは、指で宙に描いてもいいよ。絵文字みたいな簡単な絵でもいい。明日、すっごく楽しんでる自分の笑顔を想像して描いてみるんだ」

「明日の笑顔……私の笑顔……」

「毎日これをやり始めてから、僕もちょっとずつ笑えるようになったんだ。“明日”これだけ笑えてるんだって思うと、“今日”も頑張れるからさ」


 要は自分の明日の姿を想像するように虚空を仰いだ。

 かと思うと、ふふっと笑みをこぼした。


「なんだか、可愛らしいおまじないですね」

「効果ありそうでしょ」

「はい」

「なんなら、今二人で描いてみる?」

「いいですね!私も、明日は笑顔をみたいです」

「うん、僕もみたい」


 二人で人差し指を空に向け、思い思いの笑顔を残した。久しぶりに描いた僕の明日の笑顔は、皺くちゃになるくらい楽しさに満ちたものだった。


 描き終わって指を離す。要の姿が再び瞳に映った。なんだか照れくさくて、顔を見合わせてお互いに笑った。


「明日が、楽しみになってきました」

「ほんと?」

「はい。これからのことだって、今悩んでも意味ないですよね!……それに私は、一人じゃないです」


 要がふとこちらを見つめた。僕も見つめ返し、優しく微笑みかける。


「うん。僕たちは、一人じゃない」


 温かい空気に包まれながら、二人は深く眠りに付いた。

 僕は夢に連れて行かれる前に、心の中でお願いをした。


 明日は二人で、いい笑顔がみれますように。

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