第15話

 玄関先で立ち尽くす要は、うつむいて浮かない表情をしていた。


「どうしたの、大丈夫?」


 少しだけ首が下がった。おそらくうなずいたのだろう。


「そっか。とりあえず入りなよ、寒かったでしょ」


 だが要は動かなかった。何度もごくりと喉を鳴らしている。

 やがて拳を握りしめ、深く頭を下げた。


「今日も、ここに泊めさせてください」


 やはり要は泊まることに申し訳なさを感じているようだ。

 僕は憂心を取り去ろうと、彼女の肩に手をあてしっかりと頷いてみせた。そのまま腕を取り、中に誘導する。

 要は力を抜いているのか、軽く引いただけであっさりとついてきた。


 特に気にせず普段通り今日の出来事を話してみるが、どこか上の空の様子の彼女はひどく気になった。


 要の顔を覗き込む。


「なにが、あったの?」


 はっとしたように僕に顔を向ける。

 少し間を開けたのち、「ちょっと、母のことで」と乾いた声をだした。


「僕が訊いてもいい?」


 思い惑って少しの間要は口を閉ざしたが、咳払いをひとつすると落ち着いて話し始めた。


「母が、長期入院することになったみたいです。この間倒れたときの件では大きな異常はなかったみたいなんですけど、昔から睡眠薬に依存していたみたいで、この機会に本格的に治療するみたいです……あ、でも、そのことは全然気にしてません。そうじゃなくて」


 要はこちらに体ごと向き直った。


「さっき、あの人の入院してる姿を見たんです。いろんな機械で繋がれてるとこ」


 下唇は血が滲みそうなくらいきつく結ばれていた。


「母のことも殺したいほど憎んでたのに、あんな弱ってる姿見せられただけで私、泣きそうになってしまった。悔しい」

「それで赤かったんだね、目」


 見られてしまった、とでもいうように、要は顔を手で覆いだした。

 目どころか、鼻や口までも隠れてしまった。

 その状態のまま言葉を投げる。


「え、やっぱり、わかる?」

「うん、ちょっとだけ充血してると思う」目の前にいる要の顔を思い出しながら答えたから曖昧な返事になってしまった。

「そっか」


 ゆっくりと手を離した。赤がかった目が僕を見る。

「こんなのすぐ消したい」と呟いた。


 僕は思い立って台所に向かった。

 冷蔵庫から取り出した保冷剤を、綺麗なタオルでくるんで要のもとに戻る。


「これ、効果あるかも。座ったままでいいから上向いて。目閉じて」


 不思議そうにそれを見つめたが、指示に従って上を向いてぎゅっと目を瞑った。

 頭を軽くベッドに置く。

 手の中でひんやりと冷たくなっていくタオルを、僕はそっと要の瞼の上に重ねた。


 冷たかったのか、要は体を少しだけ縮こませていた。

 僕はその隣に座り様子を窺う。

 親への愛情の証のような赤い目に過剰に反応するのはわかる気がした。


 虐待を受ける子供ほど親を庇い、執着するとどこかで聞いたことがあった。

 要は自分が親に少なくとも情があると知ってしまって、自身で葛藤している最中なのかもしれない。


 そして両親に愛されず、両親を素直に愛することもできないと知った子供はどう思うだろうか。

 僕がその立場なら、自分の存在意義を疑うと考えた。

 自分が生きている意味なんてあるのかと。

 もちろんこれは自虐的な考えしかできない彼だからこそ思うことで、要も同じ考えだという可能性はむしろ低い。


 だが要にどうしても、僕にとっては生きる支えになっていることを伝えたかった。


「要ちゃんさ、公園で拾った僕の絵、今日も持ってきてるの?」


 急な質問に要は一瞬焦った様子を見せたが、すぐに元に戻ると「今日も、というか、私はいつも鞄に入れてますよ。忘れたことなんてないです」と言った。


 目にタオルを当てたまま答えた。

 ちょっとだけ口角が上がったように見える。


 聞くと通学バックの中に入っているというので、許可をもらって中から見慣れた絵を取り出した。

 再び要の隣に腰を下ろす。


「こんなこと言ったらがっかりされるかもだけど、僕は要ちゃんがずっと大事に持ってるこの絵、大嫌いなんだ」


 何か言おうとしていた要の口がピクッと止まった。

 僕は目線を絵だけに集中し、気づかないふりをして続けた。


「最近になって、どうしてこんなに嫌っているのかわかった。上手く描けなかったからって言うのもあるけど、その絵は、賞が取れなかったなんだ。審査員が嫌いだから、僕も嫌っていた。ずっと賞を取ることがすべてだと思ってたから」


 でも、と言って目隠しされた要を見る。


「誰にも共感されなかった自分の絵に感動して、ずっと持っていてくれる人が一人だけでもいることが、こんなに嬉しいことだなんて知らなかったんだ」


 要はごくりと喉を鳴らした。

 僕は絵の具が乗った、ざらざらとした表面を優しく撫でた。


「要ちゃんがいれば、僕はずっとこの絵が好きでいられるんだ。だから、さ」


 今から告白でもするような緊張感を覚えた。

 汗が溜まってシャツが気持ち悪かった。

 この後、沈黙がおそらく三十秒ほど続いていた。


 ようやく息を吸って決意を固めた時、


「水無瀬さん」


 声がかかった。突然呼ばれて思わず肩が上下に跳ねる。

 はい、と言って要の方に首を回す。


 その口元には笑みが浮かんでいた。


「私はどんなことがあっても、ずっと水無瀬さんの隣にいたいです」


 思いがけない展開に、頭が追いつかなかった。

 まさに今言おうと思っていたことを先走りされるとは。

 彼女は僕が思っていたよりもずっと、強かったのかもしれない。


「私も、あの絵だけじゃなくて水無瀬さん本人にも何度も助けられてるから。水無瀬さんは、どうですか?」


 主導権を握られてしまった。正直に答えるしかない。


「隣に、いてほしい」改めて言うと結構照れくさい。

 彼女の勇気に尊敬する。


 要は隣で一息つくと、置いていたタオルを外して体を起こした。

「ありがとう」


 タオルを受け取り、再び要の顔を見る。

 目はまだ赤かった。というより、なぜか悪化しているように見える。


「お風呂借ります」


 そしてそのまま風呂場まで直進した。

 ドアを閉める時、隙間から覗いた紅潮した頬と嬉しそうな表情をみた僕は、たぶん今までで一番心臓が激しく揺れていた。


 手渡されたタオルを眺める。若干、濡れた後があった。


 氷、溶けたのかな。

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