第16話

「こんど四谷先生くるんだ?」


 これから遊ぶ友達がなかなか来なくて暇だという宏斗の我儘で、夜の十一時だというのになんの予告もなく電話がかかってきた。隣で要が寝ているので、声を抑えてアトリエに移動する。電気はつけないことにした。

 アトリエに通じるガラス扉から透けた、隣室で薄く光るオレンジの常夜灯だけが頼りだ。


 それにしても、四谷先生は各アーティストの中でもトップクラスの画家だ。そんな先生が普通に講師としてやってくるなんて、岩城大学じゃなきゃ実現できないだろう。


「あぁ、基本は美術学科の生徒が対象なんだけど、他の学科の生徒も見てもらえるみたい。ま、もうお前には関係ないかもしれないけど報告まで」

「そっか。ありがとう」

「おう。まぁそれより、あの子は元気にしてるか?」

「え、要ちゃんのこと?」


 隣の部屋を振りかえった。


「うん、今は落ち着いてると思う」

「ならいいけど。春にもその話した時、心配してたから」

「え、誰?」


 どこかで聞いたような名前だが。


「この前大学行った時会っただろ。俺の……」


 そこまで聞いたところで頭の片隅に眠っていた記憶が引き出された。


「宏斗のカノジョか!」


 宏斗に無理やり大学まで連れて行かれた時、たまたま通りかかった春を紹介されたのだ。テンションが異様に高かったから宏斗と合いそうだと自然に思った。


「いや彼女じゃねぇっつーの!」


 携帯の画面が割れそうなぐらい叫ばれた。

 即座に耳から離し、一呼吸置いてから元に戻す。


「でも幼なじみなんでしょ」

「幼なじみイコール彼女ではない」


 さすがにさっきの声量は気が引けたのか、声が少し小さくなった。


「じゃぁ春さんにも伝えといてくれる?」

「おう」


 後ろでかちゃりと音が鳴った。

 振り返るとパジャマのまま要がアトリエに来ていた。


「あ、要ちゃん」


 携帯に声をかけた。「また掛けるね」

 わかった、という宏斗の声を聞いてから電話を切った。蓋を閉じてズボンのポケットに押し込む。


「ごめん、声大きかったよね。起こしちゃった?」

「いや、寝れなくて」丸めた手で目を擦っている。

「そっか」

「ちょっとだけ、絵見てもいい?」


 僕は頷いて、電気をつけた。

 要はトロンとした目で絵を眺めている。


 四谷先生かぁ。ずっと会いたくて会いたくてたまらない画家の一人ではあったが、今更なにを話せばいいのか。自身の絵なんか持っていければいいのだけれど。

 夢中で考え事をしている間、要は座り込んでアトリエの端に立てかけられていた一枚の絵を手に取った。


「あれ、これって……」


 じっと絵を見つめたまま固まってしまった。


「ん?」現実に戻り、要の手元の絵を覗いた途端、顔じゅうが青褪めるのが分かった。


「あっそれはまだっ……」

「え?」


 絵の前に覆い被さるが、もちろんすでに絵を見ていた要には遅かった。


「見られた……」


 はぁ、と盛大にため息がこぼれる。僕が必死に隠そうとした絵に、要はぽかりと口を開け広げ目を丸くしていた。一本の花だけが描かれ、悲しそうに捨てられていたあの絵に、にこやかな表情で水やりをする要が描かれていたからだ。


「これ、拾った絵。しかも、水無瀬さんが言ってたアイデア」

「あの、ホントはもっと細かい所とか描いてから見せようかと……」


 僕の苦しい言い訳は、要にはあまり聞こえていないようだった。

 ようやく絵から目を離したかと思うと、


「水無瀬さん……描いたんですか」小さな声をこぼした。


 目を大きく見開き、僕の回答を待っている。

 要がどう感じているのか、それを訊くのが死ぬほど怖くて声が震えた。


「う、うん」


 肯定を示すのとほぼ同時に、要の右目からは涙が零れ落ちた。

 僕はぎょっと驚き、咄嗟に立ち上がった。

 ハンカチを持ってこようかどうしようか焦っておろおろしていると、かすかに笑う声が聞こえた。要は、頬に涙を流したまま柔和な笑顔を浮かべていた。


「ありがとう」


 久しぶりに絵を描いた感想だが、僕はこの絵を描いてよかったと、ただその一言に尽きた。賞を取った時よりも何倍も、この日ほど隠しきれない笑みを垂らしたことはないだろう。


 よく見てみればいびつな箇所がいくつも目に付く。他の絵と比べれば一目瞭然だ。でも、僕が描いたということに感動して泣いてくれる彼女を見たら、そんなこともうどうでもよくなっていた。僕も、彼女の笑顔ただひとつで溺れるほどに満ち足りていた。


 今までの疲れがようやく抜けた気がする。

 ふぅう、と長く息をつき、床にしゃがみこんだ。


「頑張って、よかった」


 要はすかさず僕の隣に座った。先ほどの絵を掲げる。


「よかった、です!」


 要の子供のような無邪気な笑顔は滅多に見ない。

 僕はその貴重な光景を時間の許すかぎり眺め続けていた。


「あぁ、でもほんとは、要ちゃんに誕生日聞いてから渡したかったな」


 まぁいっか、と笑っていると、要はたちまち飛び上がり、興奮気味に僕の腕を取った。


「み、水無瀬さん!私明日っ」


 要の声を遮るように、ボーンと低い音がアトリエに響いた。

 お互いに音のする方を見上げる。


「いや。今日、誕生日です」


 小さな掛け時計は、十二時を指し示していた。


 彼らは反射的にお互いを見合った。


「え、うそ。ほんとに?」

「うん」徐々に要はにんまりとした顔をした。


 僕もたちまち口元が緩んでいく。


「これ、偶然ですか?」

「偶然に決まってるじゃん。あ、じゃぁちょっと待ってて」


 さっと立ち上がり、隣の部屋から蝋燭と小さな皿、ライターを取って戻った。

 隣の部屋の電気を完全に消し、再び要の前に戻る。


「えっ何で消すんですか?」


 完全に真っ暗になったアトリエで声を上げた。

 いいからいいからと言って、皿の上に蝋燭をのせ、ライターをつけたものを要の前に置く。


 小さな蝋燭は微力ながらも、お互いの顔を照らす程度に輝いた。


「これって」

「ケーキも何もない簡単なものだけど、はい」


 蝋燭の淡い光は、要を優しく照らしていた。


「お誕生日おめでとう」


 ずっとずっと、その言葉を待っていたかのように、みるみると目に涙を溜めだしたのがわかった。それは今にも流れ出しそうだった。


「また泣くの?」

「な、泣かないよ!」

「でも泣きそう」要の顔を覗いた。

「なんでそんなこと……」

「見えてる、けど」


 言われて要は顔を上げ、僕にチラリと目を向けると、得意げに蝋燭の火を吹き消した。


「あっ」


 気づいて声を出した時にはすでに、辺りは暗闇に包まれていた。


 暗闇の中から、要がくすくす笑う声が聞こえてきた。

 つられて僕も笑いだす。目が慣れてきた後も、しばらく笑い続けていた。

 途中で要がその場で寝転がったので、僕も真似して横になった。


 お互い散々笑い終え、アトリエが静かになったところで要は言った。


「水無瀬さん」

「ん?」寝たまま、彼女の方を振り向く。

「昨日のおまじない、今頃効果が出ちゃいましたね」

「そうだね、ちょっと調子が悪いのかな」


 要はふふっと笑った。


「私、誕生日とか祝ってもらったの初めてで。だから今、最高に幸せです!」


 暗闇で表情までは見えないが、彼女は今、笑顔で話しているだろう。

 なんとなく雰囲気でわかる。


「それはよかった」


 要は大きく頷くと、ありがとうと小さく呟いてそのまま眠ってしまった。

 すぐに寝息が聞こえてくる。


 僕の絵を大事そうに抱きしめながら眠る要の隣で、僕もゆっくりと目を閉じた。

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