第41話
僕はバスに飛び乗ると、たどり着くまでにがらがらの座席にも座らずひたすらソワソワしていた。ちょうど彼女に、話さなければならないことがあったのだ。電話がつながってもいないのに、手に汗が滲んだ。
バスを降りると、その場で握りしめた番号を開き、携帯に打ち込んだ。だがいきなり掛けても大丈夫だろうかとか、いま出られない状況だったらどうしようだとか、いろんな考えが頭を過る、なかなか発信ボタンが押せずにいた。足は無意識に自宅までの道のりを歩き続ける。
「あ」
我に返り足を止めたそこは、お気に入りの橋の上だった。要とのたくさんの思い出が詰まったこの橋に、今日は月の光が流れ込んでいる。暖かい光に包まれているようで、緊張ぎみだった肩がすとんと落ちた。
川に背を向け、発信ボタンを押して耳に当てる。
「はい、梨谷です」
少しだけ低くて、だけど透き通った、何度も聞いたことのあるあの声が耳に流れ込んだ。胸がドキリと音を鳴らす。
「あ、あの、……水無瀬です」
言うなり電話の向こうからは、「ええ!」と大声が鳴り響いた。
「ご、ごめんなさい、大声出しちゃって……」
「いや、僕もいきなりでごめん。いま大丈夫?」
聞いた直後、電話の奥で車の通過音が聞こえた。どうやら外にいるようだ。
「はい。ちょうど学校帰りなので」
「そっか、よかった」
電話で話すことなんて初めてで、普段会って話すときよりもぎこちなくなってしまった。
「あの、久しぶり、だね」
「はい。……ほんとに、水無瀬さんなんですよね。なんか不思議な感じ」
「うん、ちょっと恥ずかしいよね」
「そう、ですね」
受話器の奥で足音が聞こえる。
「お母さんとの生活は、どう?」
要の息を吸う音が耳に入る。
「最初は、私があれやろうとかこれやろうとか、提案したのを全部引き受けてて、お母さんは罪悪感からかなんだか服従しているみたいになっちゃって。だから、このままで大丈夫かなって心配だったんです。
でも、ちゃんと自分の想い伝えることができて、そしたらお母さんも納得してくれて、今では結構お互い言い合ったりしてるんです。他の家とはちょっと違うかもしれないけど、私はお母さんとの今の関係、すごく満足しているんです。それもこれも、水無瀬さんのおかげなんですけどね」
「そんなことない、要ちゃんは一人で頑張ったんだから」
「そんなこと、あるんですよ」
要はクスリと笑った。
「え?」
「本当に水無瀬さんって、自分のことを卑下しますよね。私が水無瀬さんに助けられたのは事実だし、もっと自信を持てばいいのに」
以前の四谷先生の言葉と重なり、笑みが増す。
「うん、そうだね。天才にでもなれたら、自分を褒めてみるよ」
「なんですかそれ。……それより水無瀬さんは、最近どうですか?」
「どうって」
「大学ちゃんと行ってるとか、絵を描いてたり……?」
「あぁ」次第にまた口角が上がっていく。「大学は行ってる。それから絵も描いてるよ。毎日」
「もうすっかり、絵が手放せなくなりましたね」
ふふっと要の喜びがこぼれる。
「うん。最近、余計に楽しくなっちゃってさ」
「そうなんですね、見てみたいなぁ」
僕はどきりと胸を鳴らした。そうだ、言わなきゃ。宣伝が始まるのは今日の六時から。
その前に、誰よりも早く、伝えたい。
「あの、さ。実はこの電話で、要ちゃんに伝えたいことがあるんだけど」
高鳴る胸に手を当て、大きく深呼吸をした。要は静かに僕の言葉を待っている。
「アトリエにもう来なくなるって話をしてお別れした時、要ちゃんが言った言葉、覚えてる?」
「えっと、いろいろ言ったんですけど……印象に残っているのはやっぱり、また有名になることを諦めるな、ってやつですかね」
「そうそう。かっこよく放っていた、あのセリフ。僕あれからすごく気にかかってさ。見上げるくらいでかい夢を、今から目指そうなんて無謀だって、当たり前のように諦めてたから」
「うん。そうだろうなって、思ってました」
「でもさ、右腕を失って、要ちゃんに出会って、絵がまた好きになって。僕に新たな希望が生まれたんだ」
僕は振り返り、川に映る自分に笑いかけた。
「左手で、奇跡を描こうって」
なんで左手が残ってしまったんだろう、そんな悔し涙ばかり流すのはやめることにした。事故で何事もなく助かった『奇跡の左手』で、水無瀬佑の名を世界に轟かせたい。僕はたとえそれが何年かかろうと、追い続けると決断したのだ。
目を瞑り、心を落ち着かせた。
「その最初の一歩が、決まったんだ」
「決まった……?」
息を吸い、言いかけたところで、鼻先を辿る風にほんのり甘い香りがした。
知ってる、この香り。耳を澄ませば聞き慣れた足音が、声が、近くに感じる。僕は目を開き、迷わず振り返った。
「要、ちゃん……」
「なにが、決まったんですか?水無瀬さん」
制服姿で、携帯を耳に当てる要が、目の前にいた。
衝動で涙が出そうだった。会いたくて溜まらなかった思いがじんわりと溶けだす。久しぶり、なんて挨拶を呑み込み、再び激しく鳴らす心臓に気づかないふりをして話をつづけた。
「三月二十八日、僕の個展が開催されるんだ」
「個展……。ほんとう、ですか」
僕は大きく頷いた。一歩前に踏み出し、左手を差し出した。
「一緒に、フランスへ来てくれますか」
この瞬間、虫も車も、世界中が示し合わせたかのように静かな時間が生まれた。
月の光だけでもわかるくらい、要の頬はピンク色に染まっていった。握りしめていた拳を広げ、僕の左手を優しく包み込んだ。
「ぜひ、お願いします!」
そう闇夜に響かせると、途端に僕の胸に飛び込んだ。要がきつく抱きしめながら何度もおめでとう、おめでとう、とこぼした。僕も要の体を強く抱き寄せ、ありがとう、と何度も伝えた。
六時を知らせる鐘の音が、町中に轟いた。
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