第44話
窓ガラスに顔を寄せはしゃぐ彼女の可愛さは、いつになっても慣れないものだった。
「ねえ、みて!あんなおっきい建物立ってる!前はなかったよね?」
僕も横から覗き込む。「ほんとだ。新しくできたんだね」
「明日、時間あるかな?行けそうかな?」
輝いた眼でこちらを振り返る。期待で胸を膨らませる姿に思わず頬が緩む。
「確認しておくね。たぶん行けると思う」
要は大きくガッツポーズをし、ベッドに寝転がった。鎖骨のあたりまで伸びた髪を撫で、ごろりとベッド越しに僕を見上げた。
「久しぶりだね、ここも」
上目遣いが僕の心を探る。隣に腰かけ、艶がかった黒髪に触れた。
「うん。あの頃、要はまだ十八だったからね」
「あー、若かったなぁ。今はもうおばさんだ」
「まだ三十前半でしょ。全然……」
「やめてー!戻りたくなっちゃう」僕の声を遮り、要は赤くなった頬に手を当てた。
全然、かわいいのに。
僕はふわふわのスリッパのつま先を整える。なにやら足の甲にあたる部分にフランス語の詩集がされているが、なんと書いてあるかまではわからない。
パリの一角にある少し値段の張るこのホテルを利用するのは、今日で二回目だ。朝ごはんが美味しいのと、眺めがいいのとで、僕も要も結構気に入っていた。
「あ!でもね。あの頃から変わらないものも、あるんだよ?」
「たとえば?」
ふふん、と鼻を鳴らし、要は上体を起こした。
「佑さんの個展はいつまでたっても緊張しちゃうし、佑さんの描く絵はなんど見たって涙が出るほど感動するんだよ」
そして僕の手に自分の手を重ねると、嬌笑を浮かべた。「知ってました?」
咄嗟に僕は顔を背けた。彼女は年を重ねるごとに僕の扱い方がわかってきている。毎回きゅううと締め付けられる胸を抑えるのに大変だ。
「……知ってるよ。こんなに一緒にいるんだから」
目の前の鏡に映った要は満足げに頷いた。
「あぁ、でも、いっちばん最初の個展は鮮明に覚えてるものですね」
「うわぁ、懐かしい。僕も忘れられないよ」僕は改めて座り直し、苦笑した。「あれは、最高潮の感動と、最大の苦悩の始まり、だったからね」
「その表現、すごくあってる!」
要は自然に僕の肩に頭を乗せた。要の香りがふんわりと鼻の上にのっかる。
「たった一枚だけ出展した左手の絵。賛否両論、でしたもんね」
「うん」
僕は知らず知らずのうちに筆を握る形で固定していた左手を眺める。
「個展は集客数も想定以上で大成功だったし、あの絵の良さを語る人で溢れてたけど、SNSじゃあの絵は右手とは比べる価値もない、なんて批判の嵐だったよねぇ」
あの絵、というのは、僕が要に出会って二度目に描いた、スーパームーンをバックに要を描いた絵のことだ。
「でも批判もあったおかげで、注目されまくったんですけどね」要は思い出し笑いをこぼす。
「あのときはきっと、世界中が佑さんのこと考えてましたよ」
ニュースで毎日のように報道され、仕事の電話が鳴りやまず、一日五十通近くの手紙がポストに詰まっていた。まさに一日で人生が変わった、とはこのことだろう。
「あぁ、そうか。うん、そうかも」
素直に思う。あのときの僕の注目度は桁違いだったと。
要は頭を起こして目を丸くした。
「佑さんが、自分の才能を認めるだなんて」
僕は頭を振る。「いや、ちがう。僕は努力しかできないから。つまり平凡」
「じゃあ、努力の天才ですね」
「え?」
「本気で努力できる人なんて、なかなかいないですよ」
それに、と言って要は腰に手を当てた。
「平凡な人は、あんな大復活劇を起こすことなんてできませんよ」
僕は自慢げな要の顔をじいっとみつめる。
「それって……”要”のこと?」
にやりと口角を上げ立ち上がると、要はくるりとその場で回って見せた。
「正解!」
四谷先生の家でサインをした日から、必ず成し遂げなければならないミッションが僕にはあると思っていた。一つは個展。そしてもう一つは、個展を開いたことで注目されている時期に、どれだけ人を惹きつける絵が描けるか。
これが復活するためにとても重要なことで、僕の今後の画家人生にかかっていると考えた。
その二つ目の勝負で、僕は「要」を描いた。
「まさか、”エール”を超すことになるなんて思わなかったなぁ」
「ほんとうに、左手で奇跡を起こしちゃったんですね」
「うん。なんか……夢みたい」
僕はベッドの脇に置いてあった鞄を引き寄せ、中から四つ折りの紙を取り出した。要が不思議そうに首を傾げる。僕が紙を開いたところで中身を覗いた要は、途端に悲鳴を上げた。
「ちょっ、ちょっと!なんでそんなものまだ持ってたんですか!?」
必死で紙を取り上げにきたので慌てて交わし、窓のほうへと逃げ込んだ。
「だってこれ、僕の大事なものだから」
「大事なもの!?ただのアンケートじゃん!」
要は顔を真っ赤にして手を伸ばす。
「ただの、なんて言わないでよ。僕のはじめての個展で要が書いてくれたものなんだから」
「た、大したこと書いてないじゃん……」
だんだんと恥ずかしくなったのか声が小さくなる。
僕は会場の景色を頭に思い浮かべた。数多くの名画家が集い、日本だけでなく世界中からファンが足を運び、たくさんの機材を持ったメディアに囲まれ、僕はあのとき、尋常じゃないくらい緊張していた。
その僕があがりきった肩を下ろせたのは、要の後ろ姿が見えたからだった。
「要ちゃっ……」
その背中だけで、子犬のように駆けていこうとしていた僕に振り返った要は、静かに微笑み、一礼した。
あつい熱が体中を巡り巡る。足も、頭も動かなくて、心臓だけが激しく揺れる。
あ、懐かしい。確かこの気持ちは。
初めて出会ったときに味わったもの。
僕の絵を眺めて、愛おしそうに目を細める。昔は綺麗だ、以上の言葉が浮かばなかったが、いまは彼女に問いかけてみたいことができた。
その瞳の先に、僕が映っていますか。
この後、僕の心を読んだかのようにこの問いの答えが、アンケートに書かれていた。
要の頬に手の甲を当てると、冷えた手がじんわりとあったまった。
「冷たい」要は右目を瞑り、僕の腕をぎゅっと掴む。
「ひとつ訊きたかったんだけど」
「なに?」
「あのとき、要はわざと僕のことを避けて、他人のふりをしてたよね?あれって……」
「ん、誤解しないでね。あれはその……佑さんの作った世界に、純粋にひとりのファンとして飲み込まれてみたくて」
「なるほどね」
僕は要の頬から手を離し、窓ガラスに背を預けた。
「どうだった?僕の世界は」
チラリと要をみて、すぐに手に握られたアンケートに目を落とした。感想などご自由にお書きください、と書かれた枠にはびっしりと文字が詰まっている。
「ずるいです。今更言わせるなんて」
「僕だってちょっとはいじわるさせてよ」
要は下の方で指を弄ったあと、ふうっと息を吐いた。
「以前、あなたと出会う前の私は、あなたの描いたたった一枚の絵をひたすら眺めては、この人はどんな人なんだろう、どんなことを考えてこれを描いたんだろう、とわくわくとドキドキでいっぱいでした。遊園地に行くような感覚に近いのかもしれません。
だけどあなたと出会って、あなたと共に時間を過ごして、いろんな経験を経た今絵を見たら、全然違う見え方になりました。
どの絵にもあなたの影を見つけて、あぁこの絵にはこんな思いがつまっているのか、こんなに汗を流して描いたのかって、更に絵の魅力に気づきます。絵画の世界はあまり詳しくないけれど、あなたのことを知っていくほどに絵の鑑賞が何倍も楽しくなっていきました。
この個展は、あなたの人生が描かれています。なんとなく見ていて思ったことですが、
あなたは、たくさんの方に愛されていますね。
絵の前で水無瀬さんの良さを語り合う人、眩しいくらいの笑顔で帰っていく人、この個展を支えるスタッフ。
愛に溢れたこの世界が、私は大好きです。
『水無瀬佑の奇跡 展』開催おめでとうございます。
そしてこの場にお呼びいただき、誠にありがとうございます。
これからのご活躍を、心より期待しております」
もう何度も読んだこの文を、彼女の口から聞けるとは。嬉しさを口元に浮かべる。
要は長い息をつき、僕の隣でもたれてそのまま座り込んだ。僕もかがみ、要のほうへ文字を傾けた。
「すごい、一言一句あってる」
「本音だから。間違えるわけないです」
窓の外のクラクションの音が部屋に響く。廊下のほうで家族連れの声が聞こえる。隣で要の小さな吐息がきこえる。
「今日まで、ほんとうに長かったね」
「長かった、ですね」
「でもやっと、ここまでこれた」
「……はい」
僕は紙を折りたたみポケットにしまいながら、天井の豪華なシャンデリアを眺めた。「もう、今のところ表舞台にでる予定はなかったよね?」
「ん?まぁ、そうだね」
「じゃぁ、今のうちにさ」僕はごくりと息を呑み込んだ。「式、あげとこうか」
え、と小さく呟く要に、僕はほら、と掌をみせる。
「外してた指輪、貸して。今までカメラが入るところじゃ外してたでしょ。そろそろ発表してもいいと思って」
掌に汗が渡っていくのがわかった。
「要には僕と一緒の指輪、堂々とつけてもらいたい」
要はぱちぱちと瞬きしたあと、ぎこちない動きで鞄から手に収まるサイズの箱を取り出した。はい、と言って緊張気味に手渡す。
箱のさらさらとした表面を撫で、中を開く。十年前アトリエで渡した指輪は、いまも変わらず光っていた。僕は慎重に手に取る。
「左手だして」
要の小さい手が差し出される。その薬指に、指輪はするりとはまった。
「待っててくれて、ありがとう」
要は首を振る。左手に輝く光を目に映し、懐かしい、と笑みを垂らした。しばらく堪能してから、あっと声を上げた。
「佑さんも、持ってきてください!つけますよ」
「そうだね、ちょっと待ってて」僕は鞄を漁り、要に同じ箱を差し出した。「どうしても、指輪をはめるのだけは苦手で……」
要は横に首を振り、箱を開けた。「大丈夫ですよ、私がいるんだから」
差し出した左手に、ゆっくりと指輪がはめられる。僕たちは指に収まった指輪を重ねた。
右腕を失くした奇跡の右手。
残った左手の可能性を、僕はいままで見逃していた。
それを拾ってくれたのは―――。
『要』は、彼女にしかない色、僕の人生に必要な色で染められていた。
僕の落とした左手を 宇野 伊澄 @izumi-uno
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