第11話

 どうしよう。


 冷蔵庫を開け、しばらく覗いてから卵を二つ取り出してドアを閉める。


 どうしよう。


 卵をキッチン台に置き、手を離す。卵が左右にグラグラ揺れた。

 気になって何度もちらりちらりと横に目をやる。

 いつものベッドには要が眠っていた。


 家に、泊めてしまった。


 正確にはあの後、泣き止んだ彼女がその場で爆睡してしまって、仕方なく泊めたのだけれど。


「女子高生だし、変な噂にでもなったら……」

「おはよう」

「うわぁあ!お、おはよう」


 突然体を起こしたものだから、吃驚して膝を打ち付ける。

 要はゆっくりとベッドから降りると、膝を抑える僕のほうへすたすたと歩いてくる。

 この子、絶対寝起きいいよな。


「寝ちゃったみたいで、ごめんなさい」


 寝起きの虚ろな目で上目づかい。

 そんな顔で、謝られたら、


「や、全然!全然大丈夫!」大丈夫じゃなくても言ってしまう。


 卵を手で転がしながら話していると、要はそれを見て首をかしげた。


「朝ご飯?何つくるの?」

「うん。た、卵焼き、とか」

「作れるの?」

「いや、えっと」


 作れるわけがない。いつもコンビニの惣菜ばかり食べている奴が。

 だが今日は要もいることだし、ちゃんとしたご飯を作ったほうがいいのかと思ったが、卵焼きはさすがに勢いでできるものじゃない。


「無理、です。卵焼きは」


 弱気な声で呟く僕を見て、要は目の前の卵を手に取った。皿を取り出す。

 そこに片手で卵を二つ割り、箸で慣れたようにくるくるとかき混ぜる。


「え、要ちゃん、作れるの?」

「卵焼きは得意ですよ」


 砂糖と塩を適量加え、卵焼き用のフライパンを取り出し、火をかけてフライパンに流していく。要はフライパンを斜めに傾けながら、話し始めた。


「昨日の、痣のことなんですけど」


 いま話すのか、と思わず二度見してしまった。

 要はフライパンの中の卵を目で追っている。


「あの時、水無瀬さんの意見も聞かずに、勝手に見せちゃってごめんなさい」

「いや……」

 僕は眉を掻いた。「逆に、ありがとう」

「え?」


 驚いた様子でこちらを振り返った。


「だって、僕から見たいなんて言えないし、でも、気になっていたから。勇気だして言ってくれたんだよね。ありがとう」

「あれは、ちがうんです」要は手を止めた。

「違う?」

「ただ、私が見せたかっただけなんです」ふう、と息を吐いた。「今まで、誰にも見せたことなかったから。ずっと、隠しながら生きてきたから。でも、水無瀬さんには見てもらいたいって思ったんです。なんでかわからない、ですけど」

「それって、さ」


 僕は話を聞きながら、少しにやっとしていた。


「要ちゃん、心開いてくれたってことだよね、僕に」


 予想外の返しだったのか要は目を丸くし、すぐに卵に視線を戻した。

 そして、こくりと頷く。


「じゃぁ僕、要ちゃんの役に、立ってる?」


 彼女は僕を見ると、ふふっと笑った。火を止め、卵を華麗にひっくり返す。


「もちろん」


 新たに皿を取り出して、卵を四角のまま落とす。


「すご、綺麗に四角くなってる」

「泊らせてもらったお礼です。どうぞ」


 二人で丸テーブルに炊き立てのご飯と卵焼きを運び、向かい合って座る。

 要の見守る中、卵焼きを一口食べる。


「おっおいしい!」


 形は崩れていないのに、口に入った途端とろりと溶けだしていく。

 その感触と卵のほんのりとした香りが鼻をつき、箸を持つ手が進んだ。


 よかったです。と言って微笑んだ要の表情は、どことなく憂いを帯びていた。


 そうだ、まだ残っている。彼女に聞きたいこと。だけど、想像はついていた。

 どうしてあの傷跡が生まれたのか。


 僕は箸で空中を掴んだ。


「親からの虐待、だよね」


 僕の唐突な発言に、要は勢いよく顔を上げる。

 手から箸が零れ落ち、茶碗に当たってキンッと音を鳴らした。


「ごめん、急に。でも聞いておきたくて。嫌なら答えなくてもいいよ」


 要は諦めたように目を細める。


「わかってたん、ですね」

「なんとなくだけどね。わかりやすい場所には傷つけないようにしてるとことか見ると、そうかなって思った。顔、とかさ」

「そっか」


 要は落ちた箸を拾いながら、頷く。


「お母さんは?」


 体がビクッと反応するのがわかった。


「家、です」

「お父さん、は?」


 今度は反応しなかったが、代わりに手の震えが始まった。

 唇も青ざめ乾ききっていた。

 僕は要の震える手に自分の手を重ねた。反射的にまた要が顔を上げる。


「嫌なら、言わなくても……」

「刑務所です」


 遮るようにボソッと言ったのが聞こえた。


 やっぱり彼女の家を見つけたあの時、家から出てきた男は父親ではなかった。


「でも、なんで捕まってるの?要ちゃん、虐待のこと誰にも言ってないんだよね?」


 要は、手首に爪をくいこませる。


「あいつは、人を、殺したんです」


 思いもよらない事実に声が出ず、一瞬たじろいだ。


「あ、あいつは、小さい頃から、暴力をふるう人だったんです。特に、酒を飲むと余計に暴

れだして。私と母を殴るのは、習慣になってました。それで、私が小学校の時、あいつはま

た酒を飲んで、酔った勢いで、人を殺した」


 要は父親のことを「あいつ」と呼んでいるらしい。それにしても、小学生までの間でこれだけの傷を作るなんて。


「わかった。朝からこんな話ごめんね、ありがとう」


 重ねていただけの手が、急に繋ぐような形になった。

 要が、縋るように僕の手を握ったのだ。僕もそれに応えるように、優しく握り返した。


 要の青ざめた顔は、消えなかった。

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