第5話

 その日の夜、アトリエに戻ってからほどなくして、インターフォンが鳴った。


 玄関の扉を開けると目の前には、要が昨日と同じ制服姿で立っていた。

 違うところといえば今日はその上にコートを着ている。


 どうぞ、と言って部屋に入れる。

 よっぽど寒かったのか、入ってすぐドアを閉め、ふぅっとため息をついていた。


 そして昨日と変わらず、絵を見続けていた。


 僕はその傍らずっと本を読んだり携帯を触ったりしていたが、それも飽きてきて、

「学校帰り?」と聞いてみた。


 要は振り返って小さく頷いた。

 今日は行ったんだな、と少し安心する。


「ほんとは最近学校行ってなかったんだけど、ここにまた絵を見に来れるって思うとなんか楽しくなっちゃって。一日、頑張れました」


 そんなに楽しみにしていたのか。鼻歌を唄いながら眺めている姿に偽りはなかった。


「水無瀬さんは、行ったの?大学」


 行ってない。と答えると、要は下を向いて笑った。


 まつげ、こんなに長かったんだ。

 ついついぼうっと見つめてしまい、顔を上げた彼女と目が合う。


 ほんの十秒程度だったが、なぜかお互い見合っていた。

 要はその間決して目をそらさなかった。

 僕の場合は、ただ固まってそらせなかっただけだ。


 白い肌と、長いまつげ。

 さらさらした髪。

 それ以上は見れなかった。

 スピーカーから大音量で聴こえてくるような心臓の音が彼女にも聞こえているような気がして、胸が張り裂けそうだった。


「水無瀬さん」


 はい、と返す声が裏返りそうになった。


「嫌じゃなかったら、ですけど……」要は目を伏せると、間をおいてから息を吸った。

「絵を、見てもらえませんか?」


「え?」


 特に何かを期待していたわけではないが、深いため息とともに一気に肩の力がぬけた。

 体を楽な姿勢に戻す。


「要ちゃんの?」

「あ、私じゃなくて。また、拾ってきたんです」

「うん、いいけど……」


 そう言うと要は学校の鞄からA4のファイルを取り出し、そこにちょうどおさまっていた厚紙を抜いた。

 これです、と掲げる。


 受け取った紙には、半分から下が緑の草で埋まっていた。そして草の間から生えてきたように一本の小さな花が中央まで伸びている。

 描かれていたものはそれだけだった。


 おそらく描き方からして小学生の絵だろうが、空の色も無く、なんだか……

「寂しい、よね」


 要は感想を訊くと、やっぱり、というように息をついた。

「どうしたら、いい絵になりますか。どうしたら、この花喜ぶと思いますか?」


 なるほど。今までそんな気持ちで絵をかいたことなんてなかったので新鮮だ。


「要ちゃんは、この花を元気にしたくて拾ったの?」


 そもそも、絵を拾う人なんてあまり聞いたことがない。

 僕の絵を拾った時の彼女は小学生だったというからまだ納得できたが、もう高校生だ。

 何か意味がないと普通は拾わない。

 ましてや小学生が描いた絵なんて。上手くかけなかったからだとか、もしかしたら単に落としてしまっただけかもしれない。本人だってそんなに重要視してないはずだ。


「最初見たとき、なんだか絵が悲しそうだなって感じました。その時水無瀬さんのこと思い出したんです。私じゃ画力が無いから無理だけど、水無瀬さんならきっと元気にしてくれるだろうって。それで、あの、」


 口ごもる要を促すと、両手を顔の前で合わせて勢いよく叫んだ。


「ファンのためと思って!この花を元気にする何かを描いてもらえないでしょうか!」


 こんなに熱心にお願いされたのは初めてで、圧倒されてしまった。

 頼られているのは嬉しいことだが、描けと言われるとちょっと……。


 垂れ下がった右の袖を見つめ返し、自分でも情けないと思うほど弱気な声を出す。


「ごめん、僕はもう描けない」


 外を歩く人の足音が聞こえるほど、部屋の中は静寂に包まれた。

 要は僕の目線の先を追っている。

 その顔は戸惑っているようだった。


「あの、えっと、絵は描けないけどアイディアぐらいなら出せると思うから、それで許してくれないかな……?」


 再び視線がぶつかる。

 逃れるように出した案は、どうやら上手くいったようだった。

 要は気を取り直したように息を吸い、大きくうなずいた。


 僕も息を吸って気持ちを切り替える。

 すごく期待されているのがプレッシャーだが、今更文句は言えない。その絵をもう一度手元にもってきて、眺めてみる。


 考えている間、要がずっと絵の中の花を見つめていたのは、なんとなく視線で気づいていた。

 ぽつんと一つだけ立っていた花は今にも枯れそうで、要のような感性の持ち主なら確かに悲しそうだと感じるだろう。


 我が子を心配する親のような目で見つめる彼女を見ていたら、僕の脳にピンとくるものがあった。


「ここに、この絵の中に、要ちゃんを描いたら?」

「えっ私?」


 要は大きく目を開けて見返す。

 その目に映るように僕はゆっくりと頷いた。


「絵の中で、この花を元気にしようとしてる要ちゃんを描いたらすっごく素敵な絵になりそう。花も元気になるよ。どうかな?」


 こんな考えは初めてで、思わずふふっと笑みがこぼれる。

 絵を元気にさせる、という彼女の表現を僕は気に入っていた。

 昔だったらそんなこと……と思うかもしれないが、今は恥ずかしいとか、幼稚だとか、そんな気持ちには全然ならなかった。


 アイディアは好評だったようで、要は同意したように頷くと目を閉じてその情景を思い浮かべていた。

 僕も一緒になって目を瞑る。

 いろいろと試行錯誤しながら一輪の悲しそうな花を必死で元気づけようとする要の姿が浮かんだ。次第に花にも活気がもどり、要の顔にも笑顔が咲いている。


 うん、これなら絵の中の花も彼女も元気にできそうだ。


「楽しそう」


 いつの間にか、目を開けてこちらを見ていた要は言った。


「今の水無瀬さん、今までで一番楽しそう」


 え、と声が漏れる。思い描いていた情景がぱっと消えた。


 嫌いなはずなのに、楽しんでたら矛盾してる。いや、もしかしたら考えるだけは好きなのかも……。

 あれ。そもそも僕は絵の何が嫌いなんだろう。


 描くことが嫌い?見ることが嫌い?絵のアイディアを働かせるのが嫌い?

 僕はどうして絵が嫌い?


 頭のなかがぐるぐると渦巻く。

 要はなにか二言ほど話しかけてから、帰り支度をはじめた。

 玄関のドアを開けて外に出るまでの間、僕はぼぅっとしていて何も耳に入ってこなかった。


 要もそれに気づいたのか、最後に放った声はメガホン越しに放つかのように大きな声で叫ぶように言った。


「水無瀬さんは、きっと絵が大好きです!」


 頭で考えていたことがすっと消えた気がした。要は満面の笑顔を見せ、出て行った。

 ドアが、がちゃりと音を立てて閉まる。いつも通りの静かな部屋に戻った。


 ――えくぼ、できてたな。

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