第3話

 彼女は、なしたにかなめ、と名乗った。


「果物の梨に、谷折りの谷」

「かなめ、の字は?」


 少し俯いてから「不要の要」と小さい声で言った。


 有要、とか必要、とか、いくらでもあるのに。

不要を選んだのが若干気にかかったが、要は考える間を与えず同じ質問をした。


「あなたの名前は?」


 そう言って僕の顔を覗き込む。


「水無瀬、佑」《みなせゆう》


 要は途端に空を仰いでんんん、と唸ると、やがて少し照れたように、

「水無瀬さん、って呼んでもいいですか?」と言った。


「いいよ。僕は……」

「要でいいです」


 さすがに出会ってすぐの女子高生を呼び捨てにするのはいかがなものか、と渋っていると、


「嫌ならちゃん付けで」


 と、言われてしまったので、仕方なく要ちゃんと呼ぶことにした。これでもだいぶ無理している。

 女性をちゃん付けで呼ぶことなんて、小学生以来かもしれない。


 公園から自宅までの道中、何とか話を引き延ばすことに成功した。

 見慣れた屋根が視界に入り、ほっと息をつく。


 僕の家は二階建てだ。と言っても、一階が駐車スペースであるため住居兼アトリエは全て二階にあった。だから玄関にたどり着くまでに二十段ぐらいある階段を登らないといけないのだが、普段家に引き籠ってばかりの僕には自宅ながら多少きつい。


 白い息を上げながら階段を登り終え、玄関を開けてアトリエを覗かせる。

 家の中は外と変わらないくらいキンキンに冷えていた。腕をさすり、すぐさま暖房をつけた。


 リモコンを探し、電源をつけるまでの間、要はずっと靴箱の前で茫然と突っ立っていた。僕が振り返ると、思い出したかのように靴を脱ぎ始める。

 誰かを家にあげることはほとんどないが、唯一の友人である宏斗を招いた時も、同じような反応をしていたなぁと思い出した。


 右側にはこのアトリエ自慢の大きい円形の窓が一つあるのだが、そんなものなど目に入らないとでも言うように、みんな一つの小さな部屋に飾られたあらんかぎりの絵の圧迫感に驚きを隠せないようだ。


 僕も初めて美術館に行った時、大きさとか量とか、とにかく目を丸くして眺めていた記憶があった。うちはそんな風に見えているのだろう。


 要はそろりとアトリエに足を踏み入れ、絵を見上げた。


「すごい。絵で埋まってる」目の玉があちらこちらに飛んでいた。「あれ、でも……」


 口をぽかりと開け広げ驚いていたのかと思えば、途端に眉間にしわが寄った。それから何も喋らなくなってしまったので、静かな空気に耐えられず僕も慌てて一面の絵を見る。


「全部、昔描いたものだけどね」


 こいつらを見上げたのは何年振りだろう。

 全体ではなく一つ一つの絵に注意を払って見ると、描いていた時の情景がくっきり頭に浮かんでくる。懐かしい、そう思った。


「昔ってことは、今はもう描いてないの?」


 ふいに痛いところを突かれた。ファンと言ってくれる人に対して答えるのは少し気が引けたが、他に言い訳も思いつかなくて、素直にうん、と頷いた。


 訊くなり要は目を細め、どこか悲しそうな表情をした。


「なんで、描くのやめちゃったの?」


 どこから説明したらいいのやら、再び窮地に立った。

 絵を描き始めた頃からなら、口頭でも時間を食うことは容易に想像できる。かといって腕を失ったところからだと、空気が重くなるのは避けられない。

 今まで頑張って作ったこの雰囲気を壊す度胸はない。


 あれこれ考えを巡らせていた僕に、要はもしかして、と言葉を続けた。


「絵、嫌いになったんですか?」


 判断に迷っていた僕は、この簡単な答えに飛びついた。いや、これは本音だ。きっとそうだと自分に暗示をかけ、肯定した。


「うん。嫌いになったから、かな」


 自分の気持ちを言っただけ、何も間違ったことは言っていない。

 それでも、今放ったことを後悔して、その言葉を取り消したくなった。


 それほど要は、絶望という言葉がぴったりな表情を浮かべていた。




 それから一時間ほど、要は絵を見ていた。

 しゃがんで下から絵を見上げたり、立ち上がって全体を見て回ったりしていた。

 ちょっと崩れたおにぎりと味噌汁を口に流しながら、僕はそんな彼女をアトリエの端っこで座って眺めていた。

 よく飽きないよなぁ、と思う。


 やがて要は一枚の絵の前でしゃがみこみ、じっと見つめたまま動かなくなった。

 どの絵を見ているのだろう。

 気になって後ろから覗きこんでみると、それは小学生の頃、図画工作の課題で描いた家族の絵だった。題名は「大好きなパパとママ」となっている。


 この頃はまだ賞とは無縁の時期だった。

 絵の右下には、「たいへんよくできました」と書かれた花丸シールが貼られていた。

 十二年も前に描いたと思うと、線の不安定さにも笑みがこぼれる。


 要は振り返り、絵の中央に描かれた二人を指さす。


「お母さんと、お父さん?」

「うん、僕の両親」


 ふうん、と頷きながら、要は視線を絵に戻す。


「なんか、仲良しな家族なのすごく伝わる。この絵、好きだなぁ」


 要は公園のベンチでしていたような、柔らかい表情をしていた。不器用な父と母の絵を、まるで憧れの人を見るように。

 ほんとうに好きなんだなぁと、胸が熱くなる。


 自分の絵一つでこんなにも表情が変わるなんて、なんだか魔法使いにでもなったようだ。

 嬉しさの反面、熱心に絵を見つめられるとだんだん気恥ずかしさがこみ上げた。


「ありがとう」


 下を向いてぼそっと言った言葉だから、絶対に聞こえていないはずだった。はずだったのに、要は五秒ほどこちらを眺めてからクスリと笑った。


 僕は再び彼女が絵に視線を戻すまで、顔をあげることができなかった。



「今日は、ありがとうございました」


 要は靴を履きながら、礼を言った。


「こんなに長い時間絵を見てた人、要ちゃんがはじめてだよ」

「うそっ」


 要は左手につけた新品の腕時計で時間を確認する。すでに夕方の五時になっていた。約二時間半も絵に夢中になっていたことに驚いて目を剥き、ぺこりと頭を下げた。


「ごめんなさい、こんな時間まで付き合ってもらって」


 ううん、と言って首を横に振った。

 むしろ楽しかったぐらいだということは言わないでおく。絵を描くのが好きになったわけではないから、余計な勘違いをさせるのはかわいそうだと思ったのだ。


 要はこほんと咳ばらいをひとつすると、僕と真正面で向き合った。


「水無瀬さん」

「はい」

「また、明日も来ていいですか」

「……え?」


 一瞬反応が遅れてしまった。

 明日も絵を見に来るという解釈であっているのだろうけど、このアトリエに二度も行きたいと思える何かがあるのだろうか。

 どうしても気になって理由を聞くと、

「よくわからないです、好きな理由なんて」と、言われた。


「わからないけど、なにか強いものが心に響いて、手放したくないんです」


 そういってビリビリに破れていたあの絵を小さな腕で抱きしめる。

 また、あの顔だ。

 彼女の言っていることは曖昧だけど、なんとなくわかるような気がした。


 僕もその無邪気な笑顔に、すでに惹かれているからなのかもしれない。


「また明日」


 僕はそう言って、彼女を送り出した。

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