第2話

 目を覚ましたのは、昼の二時だった。重い体を左手で支えながら、ゆっくりと起き上がる。

 大量の寝汗でシーツの一部が湿っていた。嫌な夢を見ていたようだが、もう記憶に残っていない。ぴったりと体にはりついたスウェットが気持ち悪かった。


 ふらつきながらも台所まで足を運ぶ。

 水道のノズルを上に向け蛇口をひねり、からからした喉に直接冷水を流し込んだ。あまりの冷たさに足先からぶるりと震えが伝う。すぐに止めて軽く口を拭った。

 目はすでに覚めていた。


 朝飯、いや昼飯を食べようと冷蔵庫を開けて覗いてみたが、中にはこれといったものが入っていない。チルドに眠っていたチーズの塊を見つけ、口に放り込み空腹を紛らわせた。さすがにこれだけじゃ足りなかったのか、お腹は小さくきゅるきゅると音を立てた。

 しょうがない。ズボンのポケットに財布を入れ、床に脱ぎ捨ててあったダッフルコートを持って隣の部屋へ移る。


 ドアを開けると、見上げるほどの絵たちが目に飛び込んできた。

 僕が幼稚園の頃からずっと描いてきた絵が全て飾られており、壁や天井までびっしりと絵で埋まっている。

 実際に数えたことはないが、ざっと百枚ほどだろう。


 この家は居住部屋とアトリエの二部屋があり、玄関はアトリエの奥につながっている為この部屋を通らないと外には出られない構造になっていた。


 中学生だった当時、泊まり込みで、一人だけの空間で絵が描きたくて自分専用の居住部屋付アトリエなどという高価なものを望むようになり、コンクールで得た賞金を迷わず放り込んでこんなものを買ったのだ。


 今はそのまま住み処として使っているが、なぜアトリエを奥にしなかったのだろうと常々昔の自分に腹を立てる。その頃は出入りするたびに絵に触れられる幸せとかなにかを感じていたんだろうけど、今の僕に幸福感は一切ない。


 もう絵を見たいとも思わなかった。


 電気もつけずに暗いアトリエをまっすぐに歩く。床にはキャンパスや筆などの画材があちらこちらに点在していた。

 それらを軽く足でよけながら、玄関のドアまでたどり着いた。


 外は冷たい風が吹き荒れていた。

 十一月の始めだというのにもう真冬のような寒さが体を襲う。すぐに持っていたコートを羽織るが、すでに体は冷えており、早くには効果が表れなかった。

 コートの中の着崩れたスウェットを軽く手で直し、足早に階段を駆け下りた。


 最寄りのコンビニには歩いて二十分ほどだ。そこは僕のバイト先でもある。休みの日に職場の人に会うのは気がひけたが、他に便利な店が近くにないので我慢する。


 家からコンビニまでの道のりの途中に、東田公園がある。滑り台やブランコなどの遊具がどこよりも多いことから町で人気な公園で、近所の子供たちだけでなくわざわざ離れた場所からこの公園目当てにやってくる人も少なくなかった。

 僕も小さい頃は親に連れてきてもらったらしいのだが、記憶にはかけらも残っていない。


 平日の昼間だから、子供たちは学校に行っていてひと気がなかった。静まり返った公園を見渡しながら歩いていると、三つ横に並んだ二人掛けベンチのうちの一つに影が落ちていた。

 女子高生だった。

 白いシャツに紺のブレザーを着、膝まである丈の長いチェックのスカート姿でぼんやりと座っている。

制服はこの辺でよく見かけるものだったので、近くの高校の生徒だろう。


 横目で見ながらなんとなく違和感を覚えた。綺麗におりたショートボブの髪に、着崩すことなく整えられた制服、背筋をぴんと伸ばして姿勢よく座る姿は、どちらかというと委員長タイプに近い。


 とても学校をさぼる子には見えなかった。


 とはいえ、多感な女子高生だから大人には想像し難いことで悩んでいるのかもしれない。

 考えるだけ無駄だと、すぐに目線を反らした。


 コンビニの押戸を押すと、カランカランと音が鳴った。奥の方から店員が「いらっしゃいませー」と眠そうな声を上げて出てきた。二つほど年上の先輩の西岡だ。茶色に染まった髪が外に跳ねている。

 十分に効いた暖房の下で、朝ごはんのしゃけのおにぎりと味噌汁を一つずつ、それから一週間分の食料を適当にカゴに放り、西岡にお金を渡す。西岡は慣れた手つきで会計を済ませた。


「水無瀬くん、また大学行ってないの」


 そのまま帰ろうと試みたが、思った通り西岡は話しかけてきた。根っからのおしゃべり好きなのだ。バイト中でも所構わず、しょっちゅう話しかけてくる。


「さっき起きたから、今から行く気にはなれなくて」

「ふーん、単位落とすときついよー」


 当事者の話は胸に刺さる。


「気を付けます」


 軽く一礼し、その場を離れた。再び冷気に襲われる。

 コンビニ袋を軽く握り直した


 帰り道、またチラリと東田公園を覗いてみる。先ほどの女子高生は未だそこにいたが、今度は何かA5サイズほどの画用紙を手にしていた。

 それを、愛おしそうにじっくりと眺めている。


 ただ、それだけだった。

 じんわりと頭に熱が上り詰める不思議な感覚に襲われる。足が地面に張り付いたように動かなくて、瞬きができなくて、僕はその場で彼女に目を向けたまま立ち尽くした。


 あまりにも綺麗だった。


 とても寒いはずなのに、気付けば頬はどこよりも熱かった。いままで味わったことのない感覚に戸惑いつつも、次第にそれに体を預けるようになった。

 距離があるとしても呆然と視線を送り続けていたからか、やがて彼女はこちらの存在に気付いて

顔を上げた。


 やばい、見つめすぎた。


 目があった瞬間、焦って逃げようとしたが、どうやら向こうも吃驚したらしく、


「あっ」


 彼女は手に持っていた紙を離してしまった。

 風に乗って勢いよくこちらに向かってくる。そこでようやく縛られていた緊張感がほぐれ、手を伸ばして紙をなんとかキャッチした。代わりに持っていたコンビニ袋が足元に落ちる。鈍い音におにぎりの安否が気になった。


 彼女は慌ててこちらにくると、ぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございます」

「あぁ、いえ」


 先ほどベンチで浮かべていたあの表情はすっかり消えていた。ちょっと残念な気持ちを抱えながら、紙を彼女に返す。

 ふと、彼女が熱く見つめていたその紙が何なのか多少なりとも気になり、渡し際に何か書いてあるほうを表に向けてみた。


 正体はすぐにわかった。

 わかったと同時に、汗が噴き出そうなくらい動揺した。


「あ、あの、これどこで……?」


 緊張で声がか細くなる。

 知らない人に声をかけることなんて、人見知りの僕なら普段は絶対にやらない行為だ。それでも、聞かずにはいられなかった。


 彼女は途端に目を瞬かせて答えた。


「拾ったんです、小学生の時に。この公園で」


 こんな偶然があるのだろうか、一驚するあまり短く悲鳴をあげた。とっくにこんなもの、廃棄されているものだと疑っていなかった。


 あの日、持っていることさえ嫌で嫌で、泣きながらこの公園のごみ箱に破り捨てていた、左手で描いた最後の絵を拾い上げていた人がいたなんて。


「で、でも。破れてバラバラになってたんじゃ……」

「あぁ、全部集めるの意外と簡単でしたよ。後は裏で貼りあわせて……というか、なんで知ってるの?バラバラになってたこと」


 しまった、聞きたいことだけ聞くつもりだったのだが。後悔を顔に出さないように努めたが、彼女には簡単に見破られてしまった。


「もしかして、これ、あなたが描いたんですか?」大きな目が問いかける。


 ここで友達が描いていたなどと誤魔化すことは容易だろうが、僕にそんな芸ができるはずもなかった。

 下手な嘘はつくまいと仕方なく頷いた。


 途端に彼女は驚いたように口元に手を当て、一歩踏み出して近づく。


「わ、私、ずっと会いたかったです!」


 嬉々とした面持ちでそう告げた。


 その告白に、僕は一度考え込んだ。

 会いたかったということは、彼女は奇跡の右手を知っているということだろうか。つまり僕のファンで、この絵も右手で描かれたものだと……とんでもない勘違いをさせている。


 彼女の勘違いをすぐにでも訂正しなければ。


「その絵は僕が描いたけど、左手で描いたやつ、なんだ」


 この後ため息でもつかれたらどうしようかと思ったが、彼女はなぜか首をかしげた。


「それは……見たらわかります」


 彼女は僕の右手があるであろう位置を眺めていた。

 あれ、再び頭を回転させる。そういえば、彼女はこの絵を拾ったのが小学校の時だと言っていた。


 するともしかしたら……。


「『奇跡の右手』って、知ってる?」


 彼女は再び首をかしげ、「いいえ」と答えた。

 不思議そうに眉をひそめている。


 彼女は単にこの絵が好きなだけなようだ。


 僕が賞を取ったことなんて全く知らず、奇跡の右手のファンですらない。勘違いをしていたのは僕の方だったようだと自嘲する。

 しかし、この絵を好きだという人がいるなんて。彼女の顔を疑い深く見つめた。


「あなたは、この絵が好きだから、小学生の時から今までずっと持ってたの?」

「はい!最初拾ったときは興味本位だったんですけど、絵を貼り合わせていったときの感動というか……

衝撃は、忘れません」


 複雑だった。何年も前の絵を未だに持っているというのだから嘘をついているとは思えない。

 だからこそ、この絵にいい思い出なんかないし、こんなに褒められるほどの絵でもないと思っていたのだから、どう反応していいかわからなかった。


「あのぅ、いま暇です、か?」


 唐突な質問に、勢いで頷いてしまった。


「もし、もしよかったらなんですけど!」


 彼女は唇をなめ、深呼吸して言った。


「あなたの他の絵が、見たいです!」


 彼女は僕のファンになったという。もう二度と見たくないと思っていたあの絵がきっかけで。


 そして、あんなキラキラした目でお願いされて、僕が断れるはずもなかった。

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