第20話
チャイムが鳴り、講師が教室から出て行くのを見送ってから僕はすぐに机に伏した。昨日は全く眠れず、今日は一日中睡魔に襲われながら授業に耐えていた。昼休みならゆっくり寝れる――
「なんで寝てんの?」
はずがなかった。宏斗が顔を覗き込む。
「お願い、寝かせて」
がらがら声で頼んだ。だが宏斗が聞いているはずもなく、
「昨日、なんかあったんだろ?」と言って僕の隣に腰掛けた。
僕はだらけた状態のまま、開き直るように言った。
「あぁ、あったよ」
「なに、ついに告白?」
宏斗はいつになくにやにやしている。
「いや、だからあれは甘いものの話で……」
「は?なんのことだよ」
わかるはずもない。
告白まがいのことをして、でもそれは告白じゃなくて、ただ僕が自分の思いを自覚しただけの出来事だったなんて。言ってわかってもらえるほど軽い心情ではない。
あれは天然なのだろうか。それとも確信犯なのだろうか。確信犯であればあの場所で言わせたのも一つの手なのだろうか。実際にめちゃくちゃ緊張した。
もちろん僕が恋愛に不慣れなだけかもしれない。右手があった頃は告白もたくさん受けたが、まともに付き合った人なんて一人もいない。
だからこんな時どうすればいいのかすらわからない。
結局、あの後は迷惑だから家に帰ると言った要を何とか引き留めてうちに泊めたはいいが、昨日から今日大学に来るまでの計四時間ほど僕は彼女を意識しまくって、まともに話すこともできずまともに目を見ることもできず、ぎくしゃくしたまま過ごした。
だがその間彼女は何もなかったかのように僕に話しかけ、笑いかけていた。今回の事で彼女のことを意識するのもどんな顔で会えばいいのかも、僕だけが悩み続けることだと悟った。
ぼそぼそとこんな感じのことを一応宏斗に伝えてみると、宏斗は頭を掻き毟った。
「なんか、わかんねぇけどさ、気になるんなら直接聞けば?」
全力で首を振った。「いや、無理だって!そんなことできないから!」
「んー」と唸ると、宏斗はすぐにあっと声を上げた。
「じゃぁ、春に出張してもらう?」
「え、春さん?」
「女同士だったら話やすくね?」
それにはすごく納得した。
だけど、要が見ず知らずの女性に心開くだろうか。
「あいつ話上手だし、いけるだろ。じゃぁ日曜日な」
そんな簡単な問題ではないのだが、かといって他に案を出せるはずもないので、渋々頷いた。
春は「OK」の二つ返事であっさりと了承した。
不安を抱えたまま、春と要の初の出会いは当日を迎えた。
春を一目見た要は、思った通り僕の後ろに隠れて嫌悪の表情を浮かべていた。そんな要を僕から笑顔で引き離した春が連れて行った先は、呉橋にあるローウェル国立美術館だった。
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私は全く乗り気ではなかったけれど、その建物を見て、美術館という響きに触れて、思わず相好を崩した。そんな私をみて春はその場でガッツポーズをする。門から玄関まで歩いて五分もかける壮大な庭園を抜け、中へと案内された。
場違いだと感じるほど装飾された受付を通ると、春は一階の絵画に見向きもせず、すぐに目に入ったエレベーターで三階まで上った。フロアに一歩足を踏み入れた瞬間に、私は息をのんだ。なぜ春がわざわざ私をここに連れてきたのか、その理由がようやくわかったのだ。
目の前には、「ローウェル絵画コンクール 受賞作」と書かれた衝立が置かれていた。
「お目当ての物、見たいでしょ」
春はいたずらを仕掛ける子供のように、私の耳元で囁いた。私は静かに春の後に続く。二十ほどの作品を通り抜け、右手にずんずんと進んでいくと突き当りに、例のそれがあった。
「第十八回大賞 “月下美人” 水無瀬佑」
大きな額縁に、壁いっぱいに飾られたその絵は、私の心を揺さぶるのに時間はかからなかった。絵は月下美人の花を擬人化させて描かれたものだという。
白いドレスのようなものを身にまとった女性を中心に描かれており、青く大きな月に照らされてドレスの一部が青に輝いている。指先はまだ人間になりきれておらず、花びらが零れ落ちていた。
こんなにも、綺麗だと感じる作品は今まであっただろうか。
私は一瞬で引き込まれ、見入ってしまった。
「日本で唯一ここだけ、水無瀬くんの絵を飾ってるんだって」
「これが、奇跡の右手」
「そ」春は私をちらりと見る。
「受賞作品は初めて見るんでしょ?どう、感想は」
「美しい、です」
引き寄せられるように足が前に進む。今にも触れられそうな距離で、絵の中の女性と目を合わせた。だが、五秒も経たないうちにすぐに目を逸らしてしまった。謎に心の中にぽっかりと開いた小さな穴が気になって、服の上から掴んでみる。
あ、わかった。
「……美しいんですけど、なんだかこの絵を見ちゃうと、水無瀬さんが遠くにいるように思えます」
「遠くに?」
春は復唱した。私は強くうなずく。
「手の届かない存在に感じて、寂しいです」
なんだか、早く水無瀬さんに会いたくなってきた。
むず痒さを堪え、深く息を吐く。
すると突然、隣で春が苦笑した。
「なーんだ、水無瀬くん。聞くまでもないじゃん」
「え?」
意味深な言葉に振り返るが、春はすでに出口に向かって歩き出していた。私はもう一度絵を目に焼き付けてから、春の背中を追った。
春は美術館を出ると、適当なカフェを選んで中に入った。私はぱっと昼食を食べて帰るつもりだったが、春の話術に乗っかってしまい、終いには次の遊びの予定を入れるまでに仲良くなっていた。
自分は流されやすいタイプなのかもしれない、と悟った。
「それで、このまま手ぶらで帰るわけにはいかないから、一応聞いておくんだけど」
春はカルボナーラを上手に巻いて食べながら聞いた。
「要ちゃんと水無瀬くんは、どういう仲なの?」
少し困惑した。
今までそんな質問をぶつけられたことはなかったから、考えもしなかったのだ。いや、もしかしたら答えはもうすでにどこかで出ているかもしれない。でも、今の私には沈黙する以外の答え方がわからなかった。手元のビーフシチューを眺める。
しばらく黙っていると、春の方から口を開いた。
「んー、いきなり言われても難しいよね。例えば、私と宏斗の場合--あ、宏斗は水無瀬くんの親友ね?私たちは、幼なじみであり、親友ってところかな。別に男女だからって一線超えたことはないし、お互いそういう雰囲気にもならないから。水無瀬くんとは、どう?いい雰囲気になったなぁとか、ちょっとドキッとしちゃったこと、ある?」
春の例えは実にわかりやすかった。
私は思ったままにぶつける。
「いい雰囲気っていうか、不意に「どきっ」とすることは、よくあります。それがどういう意味の「どきっ」なのかは、わからないですけど……」
私の言葉に相槌を入れながら春は聞いてくれた。
「それって、具体的にどんな時になったとか、よかったら教えて」
私は思い当たる節を全てあげていった。
「水無瀬さんが絵のことで笑顔になってる時とか、必死に私を励まそうとしているときとか、私の作ったご飯美味しいって言って食べてくれた時とか、頭撫でてくれた時とか、ブレスレットつけてくれた時とか……挙げたらきりがないんですけど、でもやっぱり、私のために絵を描いてくれたことが一番嬉しかったなぁ」
一気にしゃべってから、“どきっとしたこと”じゃなくて“嬉しかったこと”に論点がずれていることに気づいた。赤くなった頬を隠す。
んふふ、と春が笑みをこぼす。「大丈夫よ」と言った。
「そこまで思い出せるんなら大丈夫。別に今無理して悩まなくても、結果はそんなに悪い方向に行ったりしないと思うよ。無駄なこと考えさせたみたいで、ごめんね」
口を拭い、ちょっとお化粧室に、と言ってふわふわと髪をなびかせながら奥に消えて行った。
春の背中を見送りながら、私は最後の一口を口に運んだ。
まただ、またもやもやする。前にも一度あったが、今回はそれ以上だった。
隣に腰掛けたカップルが談笑しているのを横目で見ながら、軽く頬杖をついた。
ちょっと、羨ましいのかも。なんて思ったりした。
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