【最終話】九、約束
ヒカルは不幸だっただろうか。
幸せであったかどうかなど本人にしか知り得ないことだが、ヒカルが本当に自分を好いていてくれたのなら、少なくとも不幸ではなかったと思う。幸せであったかまではわからないが。
人を強く想い合える心は、無限に幸せを生みだす。だから、愛し合えたのがほんの一瞬であったとしても、今までの苦しみを返上してしまえるほど幸せな気持ちになれたのではないか。
もしそうなら、死に際にそばにいられた意味は大きい。
人を信じる心を無残に打ち破られ続けたヒカルは、何も受け入れられなくなっていた。
嘲笑と癇癪の糸くずを張り巡らせ、自分自身をもそれでがんじがらめにしながら、良いものも悪いものも、あらゆるものを跳ね返していた。そんな光司郎だった頃のヒカルに、愛はなかったのだろうか。
そんな愚問はさて置いて、蝉丸と逆髪がヒカルに渡したかったものとは、まさしくヒカルが疑い拒否し続けた愛情だった。
二人はヒカルのそばで、自分たちのできる範囲で愛を表現し続けた。
たとえヒカルが義理と取り違えても、ひたむきに何の見返りも期待せずに。それがヒカルから受けた愛への感謝であったのだ。
蝉丸と逆髪だけではない。きっとヒカルは、ヒカルの手がけた人形たちに愛されていた。
死ぬその日まで、病床に就いても人形と向き合っていたヒカルから、母の愛を感じないでいられるだろうか。
人の心に翻弄された魂が
愚問に戻ろう。ヒカルは本当に愛を知らなかったのだろうか。
その答えは、否である。愛を知らぬ者に、これだけのことができようか。
苦しむ人のために黄泉の番人と渡り合い、
たとえヒカルがそれを慈愛ではないと否定しても、ヒカルの心や周りにあったものは、愛という言葉がふさわしい。
そう、人形を作るという行為そのものが、慈愛の形であったのではないだろうか。
そんなヒカルの命をかけた仕事に終止符を打つべく、直義は血にまみれた人形たちを集めて火を放った。
炎の中、ヒカルが丹精込めてつくり上げた人形たちは灰となった。
残りの人形たちも燃やそうと蔵を覗いたが、蔵の扉は粉々に飛び散って、中はからっぽになっていた。
陶器の蝉丸と逆髪も、砕いて砂とした。そうしてようやく、
人形たちも、産みの親を食いちぎりたくはなかっただろう。
これ以上不本意に操られぬようにするには、焼いてやる他なかった。
この行動がヒカルの体をさらった黒い右手への、ささやかな怒りと抵抗であった。実態のないあれを、斬ることも罵ることもできないのは悔しすぎる。
集めたわずかの肉塊にも火をつけて、残った骨はそっと埋めた。
しかし石を置いて墓とはしなかった。
ヒカルの魂は輪廻を外れてしまったから、死ぬも生まれ変わるも関係ない。ヒカルの魂の居場所は、別のところにあると知っているのだから。
魂とは何か。
ヒカルが追求し、残していった疑問には、実は答えなど最初からなかったのではないだろうか。はたまた、答えがありすぎたのかもしれない。
もし答えが溢れかえっているのだとしたら、自分の出した答えはその中に入っているだろうか。
太陽が雲から顔を出し、力強く照りつけた。
直義は濃い青の空を仰いでから、被っている笠を目深に引き寄せた。
夏の終わりの旅路に、直義は山裾のあぜ道を進んでいる。
山の端の森を通る道は、木漏れ日が多く、さやさやと木々の歌が心地よかった。蝉がせわしなく鳴き、ちょろちょろと湧水の音が涼しさをくれる。
あの夏の終わりから三年。
行く先も定めぬまま、直義は薬師として旅を続けていた。
季節の移ろいと共にあらゆる土地を歩き、多くの自然に触れてきた。
春の野原、夏の川、秋の燃える木々に、冬の粉雪。命ある大地には、こんなにも美しいものが溢れている。そういう心揺さぶる景色を見るたびに、直義はそっと短刀に手を触れた。
この短刀にヒカルがいるのか、今になって確認するすべはなかった。残念だが、短刀には人や人形と違って口がない。だがこの目は、ヒカルの輝く魂が宿った瞬間を見ていた。
力強く輝いたヒカルの魂は、ヒカルの意図した通り、黒い右手に喰われることはなかったに違いない。
しかしあいつはいつ狙ってくるかもわからない。だから、今自分は生きている。ヒカルの魂がさらわれないように。ヒカルの生まれた意味と、ヒカルが命がけで残した輝きを守るために。
森を抜けた直後、ごうっと強い風が吹いた。少し嵐の香りのする、力強い風だった。
美しいと謳われる自然にも、猛々しく荒れた一面もある。それを乗り越えて晴れ間が見えた時、その空をよりいっそう美しいと思える心に出会う。
人の世も、そういうものなのかもしれない。
「今夜は嵐をしのげる場所を見つけねばな」
そんな独り言の後に、そっと短刀に触れた。
ヒカル、お前の魂はお前自身だ。何度生まれ変わってもそれは不変に違いない。
魂がお前の体を離れたことでかつての記憶が消えようとも、感情にも色々なものがあるように、お前というあらゆる種類の人間がお前の魂に住み着いているのではないだろうか。
だから肉体を離れて短刀に宿った魂は、ヒカル、お前自身であるはずだ。私はそう信じている。
自我があっても認めてやらねば不幸になるとお前は言った。だからなおさら私は信じよう。
仰いだ風下の空には、遠くの方にたくさんの分厚い雲たちを呼び寄せていた。
この風を、空気を感じてほしい。目や耳がなくとも、残したその魂で同じものを感じ、生きてゆこう。
お前がそこにいるのなら、私たちは共に生きている。そう信じないで、どうして一時でも愛し合ったと言えるのか。
夏の終わりがまたやってくる。
お前が見せた心に応えよう。ずっと、ずっと一緒にいよう。
全ての人がそうであるように、お前も私も、愛し愛されるために生まれてきたのだから。
〈了〉
人形師 ―神の手を持つ者の選択― やいろ由季 @yairobird
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