一、青い目⑤
「お前が冴を!」
東吉は勢いのまま、光司郎に向かって小刀を突き出していた。
しかし東吉の腕は、突然現れた忍に掴まれてしまった。
「離せ!」
蝉丸と呼ばれていた忍に腕を握られ、振り払おうと全力でもがいた。
しかし忍は容易に離さなかった。握る力は増し、骨がきしんで、東吉は呻いて小刀を落としてしまった。
それは人ならぬ力であった。
ごつごつとしたその感触から、この忍も人形なのだろうかと察することができた。しかしそんなことは、今はどうでもいい。
「冴を殺したのはお前か!」
体の芯が熱くなり、熱は全身を駆け巡っていた。
切り裂いてやらねば、怒りはおさまるわけがなかった。いや、単に斬るだけでは気が済まない。もっとズタズタにしてやらねば。
目を潰され、腹を引裂かれていた。
妻に死ぬほどの苦痛と屈辱を与えた男が目の前にいる。頭に上った怒りは、涙をにじませた。
「そんなに辛かったのかい?」
光司郎は冷ややかに笑ったが、次に射るような目を向けてきた。
「でも私が殺したかなんて、いちいち覚えていないと言っただろう」
短く嘆息して、続ける。
「だけど結局は、そういうことなんだろうね。まあいいじゃないか。あんたの妻の魂は黄泉の国へ行かず、ここに留まっている。あんたとしてはそれが幸せなんだろう?」
光司郎の言ったことが、東吉にはよくわからなかった。
それを察してか、光司郎は小さく笑って付け加えた。
「この中に入っているよ。冴えの魂がね」
光司郎の後ろに、いつの間にか毬を抱えた瑠璃が立っていた。
「瑠璃! なぜここに!」
はっとして忍を見ると、光司郎が言った。
「蝉丸は探しものが得意でね」
「瑠璃を返せ!」
勢いだけで迫ろうとしても、忍に動きを封じられるだけだった。簡単に地面に叩きつけられ、動けないように腕をねじあげられた。
そんな東吉を見下すように、光司郎は嘲笑した。
「あんたは瑠璃と呼ぶけれど、冴とは呼ばなくてもいいのかい?」
光司郎の後ろに立っている無垢な瞳の人形。
もしこの人形が冴の魂で生きているなら、一体誰の名を呼べばいい?
東吉が言葉を失っていると、不意に、また瑠璃の様子がおかしくなった。
重く冷たい風をまとい、その小さな体からあの黒い闇の手がいくつも生えていた。
「またか。しつこい化け物め」
光司郎は舌打ちすると、闇の手に声を張り上げた。
「貴様が出てくるのはまだ早い! 去れ!」
闇の手は勢いをなくし、引っ込んだ。我に返った瑠璃は、きょろきょろとあたりを見回した。
その瑠璃に、光司郎が静かに言った。
「瑠璃。お前はここにいるべきではないんだよ。その名はここで捨ててしまいなさい。新しい名は、新しい主にもらうんだ」
瑠璃は毬をぎゅっと抱いた。
光司郎が瑠璃に手を伸ばす。
「瑠璃に触れるな! 冴を、冴を返せ!」
「まったく、要求が多いね」
少し振り返ってそう言って、光司郎は瑠璃の腕をつかみ上げた。
「東直義。あんたはこの人形を誰だと思っているんだい?」
東吉は光司郎の問いに、言葉を飲んだ。今まで瑠璃が一体何で何故生きているのか自問自答を繰り返した。
しかし答えなど出るはずもなく、生きているこの人形の存在を受け止めるしかできないでいたのだ。
「あんたの妻、冴の魂が、この人形に宿っている。それではこの人形は冴なのかい? それとも瑠璃なのかい?」
答えられなかった。
答えてしまえば、どちらかの存在が消えてしまう気がした。
「たとえば、冴の魂が体を離れて別のものとして蘇っても、冴であり続けるのか。でも、それを誰が証明できるというんだい。実はこの問い自体が、全くもって論外な話なんだよ。自分が自分だという証明は難しい。同じように、冴が冴である証明、瑠璃が瑠璃である証明も難題だよ。さて、どうするのかな? もしも瑠璃を冴だとかたくなに信じるのなら、私はほんのわずかの間でも、あんたに冴を返したことになるのかもしれないのだけど」
謎かけのような問いだった。光司郎は挑発するように笑った。
空が大きな唸り声をあげて、ぽつぽつと雨が降り出した。それは次第に勢いを増し、あっという間に土砂降りになった。
地面に叩きつけられた雨粒が土を巻き上げ、水と泥の臭いが漂った。
「ああ、濡れてしまったじゃないか」
光司郎がそう呟いた時、ふと忍の手が緩んだ。
その隙をついて、東吉は腕をよじって忍の手からすり抜け、その勢いのままに立ちあがって駆け出した。
「瑠璃!」
東吉は瑠璃を抱きかかえると、森に飛び込んだ。
瑠璃は渡さない。もう二度と、守りたい者を手放しはしない。
東吉は何度も心でそう叫んだ。たとえ願掛けした守り袋を託したとしても、守りたい者は自分の手で守らなければならなかったのだ。
あの日笑顔で手を振った冴は、その後どれほど怖ろしい目にあっただろうか。助けてくれと、何度も何度も自分の名前を叫んだに違いない。
渡した守り袋など、何の役にも立たなかった。
「今度こそ守ってみせる。だから私の前から消えないでくれ!」
雨を吸い込みじっとりと重くなった着物の瑠璃を、ぎゅっと抱いた。
闇雲に走っていると、背後から何かが追ってきた。
瑠璃を降ろし、刀を抜く。
その太刀筋は、忍の刀を弾いていた。
忍の刀は、腕から伸びる両刃の剣だった。
もう一度東吉を狙ってくるその刃を、東吉は刀で受け止めた。刃と刃で押し合いになる。
横目で見た瑠璃は、不安そうに毬を抱いて東吉を見上げていた。
「蝉丸。そのままそいつの動きを止めておけ」
蝉丸の背後を見ると、土砂降りの雨の中に光司郎が立っていた。
短い髪は打ちつける雨で顔にへばりつき、その隙間からおぞましい光の目が見える。
「私はね、もっと乱暴なことだってできるんだ。でもそれはやりたくないからやらない。それが私の信念でもあり、願いでもある。いい加減あんたが逃げるのには飽きてきたが、それでも私がそれをやらないことを幸運に思うがいいさ」
そして、語気を強めて瑠璃に言う。
「あの男の命が惜しいのなら、私についてこい」
「瑠璃!」
瑠璃を助けに行こうとも、少しでも力加減を変えれば蝉丸の刃にやられてしまう。
蝉丸の刃を受け止めながら、東吉は叫ぶしかなかった。
「瑠璃。お前はね、お前が冴の魂で成り立っていると知られた時点で、瑠璃ではなくなったんだ。冴として瑠璃でいることはできない。だってそうだろう。お前は誰なんだい?」
しばらく、間が空いた。
「瑠璃は瑠璃」
雨音を縫うように、瑠璃の透き通った声が聞こえた。
「おとなしく着いてくるかい?」
瑠璃はこくりと小さく頷いた。
「瑠璃、行くな!」
東吉は思わず刃の力を抜いてしまった。
忍の刃の餌食にはならなかったものの、その隙をついて忍に腕を掴まれ、次の瞬間には泥の地面に押し付けられていた。
顎を打ち、一瞬意識が飛びそうになった。
かろうじて目を開けると、瑠璃は光司郎と歩いて行くところだった。
「行くな! 待て光司郎! 瑠璃を連れて行くな!」
光司郎が少し振り向く。
「守れなかったくせに、あんたはわがままだ。私があんたの妻を殺したことがそんなに恨めしいなら、そうなる前にあんたがどうにかすればよかったんだ」
光司郎の目は、まるで軽蔑する眼差しだった。
瑠璃は光司郎の手にひかれ、無言のままに、東吉の前を去って行った。
瑠璃の名を叫ぶことはできなくなった。
冴を殺した男を、この自分が偉そうに呪うことができるだろうか。
もうすぐ夕暮れという頃に山に出かけると言った冴を、危ないからと止めていればよかった。
止めなくとも、一緒に着いて行ってやればよかったのだ。
悔しさがこみ上げて、涙で瑠璃の後姿が滲んだ。
はたして幻覚か、その姿は最後に見た冴の後姿と同じだった。
すると、光司郎と共に歩いていた瑠璃が、ふと立ち止まった。
次にくるりとこちらに振り向くと、トテトテと駆け寄ってきた。
「どこへ行く!」
光司郎は瑠璃を追いかけてきたが、何があったか知らないが、小さく呻いて立ち止まっていた。
「戻ってきてくれるのか」
蝉丸にねじ伏せられたままであったが、東吉は安堵した。
しかし瑠璃は頷きもせず、ただ、すっと毬を差し出した。
「瑠璃?」
その行為の意味がわからず、問いかけた。
瑠璃は純粋な声で言った。
「あげる。東吉にあげる」
東吉は一度毬に目を落としたが、すぐに瑠璃を見やった。
嫌な予感がよぎったのだ。
「東吉、ありがとう。さようなら」
そう言うと、少し空白の間をおいて、瑠璃はその場にガシャンと音を立てて崩れた。
泥だらけの毬が、水たまりにぼちゃりと沈んだ。
「瑠璃? おい、瑠璃!」
目の前に、不自然な角度で首が折れ曲がって横たわっていた。
これまで動いていたことが嘘のように、大きな青い目は雨を落とす空に見開かれたままだった。
どれだけ難しくとも、這ってまで起き上がろうとしたあの瑠璃が、いつの間にかそこにはいなかった。
まるで、それは死体だった。
「瑠璃……」
力が抜けた。
上の忍を跳ね除けようとか、光司郎を殴ってやろうだとか、そういったことを考えることはできなかった。
妙に冷静になった頭は、失ったものが一体何だったのかを必死に考えていた。
「寿命か」
光司郎が苦々しく嘆息するのが聞こえる。
「帰るよ、蝉丸」
蝉丸は東吉の拘束を解き、歩み去る光司郎のもとへ行った。
「無駄足だったか。あれに懸けるものは大きいのに、いつもすぐに見放される。儚いものだね。そうだろう、東直義」
最後に小さくくすりと笑って、光司郎は蝉丸と共に雨の煙の奥へ消えていった。
「瑠璃! 冴!」
雨に濡れ、泥の地面に伏したまま、東吉は歯を食いしばった。ぎりぎりと、奥歯が鳴る。
熱いものが、眼に溢れた。
また大切なものを失った。死んでしまったのだ。
そう、またあの男の目の前で。
「光司郎っ――!」
顔を上げる。
雨の中、そこは自分しかいなかった。
目の前に崩れているのは、瑠璃と名づけた、今はただの人形。
自分でもよく分からない重く暗く熱い感情が、言葉にならない叫びとなった。
◆ ◇ ◆
あばら屋の隙間風の出入り口から、日差しが差し込んだ。夏を目前にした、少し蒸し返るような暑さだった。
旅支度を終えた東吉は澄みわたる青空を見上げてから、あばら屋を後にした。
あばら屋のすぐ奥には墓が二つあった。
一つは瑠璃のもの。もう一つは冴のものだった。
あの日雨の中崩れたまま、何日たっても二度と瑠璃が動くことはなかった。その瑠璃の亡骸である人形を埋め、墓とした。
そして瑠璃から受け取った毬が、冴の墓の下に埋まっている。
すぐには気付かなかったが、毬を振るとカタカタと不自然な音がするので、何度もためらったが中を開けてみることにした。
手こずりながら小刀で割ると、出てきたのはいつか冴に渡した小さな守り袋だった。
それを埋めて、冴の墓とした。
盛り上がった土に大きな石が載せてあるその二つの墓に、東吉は手を合わせた。
目をつむり、二人の魂の安らぎを祈った。
ふと、疑問が浮かぶ。
冴の魂が瑠璃になったのなら、二人は誰だったのか。
誰が生きて、誰が死んだのか。
だが次にその問いを投げかけたあの男の顔が浮かんだので、東吉は目を開けて思考を絶った。
笠を、目深にかぶる。
「私は直義に戻る。逃げるのは、やめだ」
そう墓に告げると、直義は武士だった頃のように刀を下げ、旅へ踏み出した。
あばら屋の脇の森の影に、季節外れの菫が風に揺れていた。
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