二、ある秋の依頼①
それは直義が東吉と名乗る前の、ちらほらと紅葉が見え始めたどこかの山。
中庭に植わっている紅葉も、緑から赤に色を変え始めていた。
母屋の裏の縁側に差し込む朝日で木を削るのは、もうずいぶんと前からの習慣のようになっていた。
手探りで始めた人形作りは板に付いてきたのだが、毎回その完成度を向上させていくには、手もとの狂いを少しでもなくすように努めなければならない。
息を殺すくらい慎重に、刃を滑らせる。
「光司郎様。
いつものように、忍姿の男が背後からそっと声をかけてくる。
「今行くよ」
光司郎は削っていた木の表面を確かめてから、立ち上がった。
「今日は頼んでいた反物が届く日です」
「また
「そうでしょうね」
座った光司郎に、蝉丸は湯気の昇る茶を出した。
「あいつは嫌いなんだよ。いつもこちらの顔色ばかり気にしている」
「そういう気の弱い人間もおります」
光司郎は鼻で笑った。
「あいつは私が恐ろしいのさ」
囲炉裏では、艶やかな長い髪を束ねた女が味噌汁を温めている。
「
逆髪と呼ばれた女は、少し振り向いただけで、次に言われた通り味噌汁を椀にとった。
振り向いた時のその顔は、整ってはいたが、全く表情を作らない形をしていた。
滑らかな肌は真っ白に塗られ、口や鼻も粘土を盛り上げて造られたものにすぎない。
細い目と小さな口は動くように作られてはいたが、口は一度も動いたことはない。
だから目が動いていないと、顔は能面のようだ。
忍の装束の蝉丸も、その頭巾を取れば人間でないことが判別できる顔立ちだった。
逆髪は声を出したことはないが、蝉丸はよく喋る。作った光司郎自身よりも背の高い人形だ。
光司郎は湯気の立ち上る椀を受け取った。
そっと一口飲む。晩秋の風に冷やされた体に、その温かさが染み込んだ。
ふと光司郎は視線に気づいた。
逆髪がじっとこちらを覗いていたのだ。
「大丈夫。おいしいよ」
そう言ってやると、光司郎はまた椀に口をつけた。それから玄米と漬物を食べて朝餉を済ませた。
朝餉の後も、木を削った。
いくつもの部品を、一つ一つ丁寧に削る。そうしていると、時間はあっという間に過ぎていった。
「光司郎様。宋衛門の息子が参りました」
「ほうら、やっぱり息子が来たね」
嘆息して、光司郎は袴の木屑を払い落した。
中庭を回って表へ向かうと、情けない面立ちの若い男が立っていた。
上目遣いで、それでも必死に引きつった愛想笑いを浮かべている。
「荷運び御苦労。いつも通り、確認させてもらうよ」
「へ、へい!」
男はいそいそと、運んできた反物を光司郎の前に並べた。
その一つを取って、光司郎は織目をまじまじと見た。
「機織りは、まだ宋衛門がしているみたいだね。柄も良い。これで人形も一層引き立つ」
同じようにいくつかを手に取り、光司郎は織目と柄を細部まで確認した。
しかしある反物を見て、光司郎はふと手を止めた。
「これは宋衛門じゃないね」
じろりと男を見た。男はしどろもどろしている。
「お前かい? ようやく織らせてもらえるようになったんだね」
びくびくする男を面白そうに見やって、光司郎は鼻で笑った。
「これはいらないよ。もっと腕をあげてからでないと、私は受け取らない」
そして反物を一つ男に突き返して、光司郎はその場を立った。
「蝉丸。代金はいつも通りに」
そう言いつけて、作業の続きに向かおうとした時だった。
「光司郎様」
「なんだい?」
呼び止められたことに少し苛立って振り向くと、宋衛門の息子の奥に、二人の男が立っていた。
笠を目深に被って顔は見えないが、その姿はよく知ったものだった。
「蝉丸。さっさと代金を渡して、そいつには帰ってもらいな。いつものお客様だ」
「承知しました」
光司郎は客間へ向かった。
◆ ◇ ◆
畳敷きの客間に通し、光司郎は男らと向かい合って座っていた。
男たちは深々と頭を下げる。
「お久しぶりです、宮江殿」
「堅苦しい挨拶はいいよ。あんたらの
男らのうちの一人が、改まって書状を差し出した。
光司郎は受け取って、読み進める。
そして堪え切れず、くすりと笑ってしまった。
「宮江殿?」
男らが怪訝な顔をしているので、光司郎は余計に面白くなって聞いてみた。
「この内容を知っているかい?」
「……いいえ。しかしいつも通り、御屋形様の屋敷に参るようにとのご命令かと」
光司郎は再び書状に目を落とし、口元に冷笑を湛えた。
「御屋形様もだいぶ出世なされたようだ。今度は太閤殿下に人形を贈りたいらしい。私に秀吉殿のところまで直接出向くようにと書いてある」
「京にですか!」
男らは身を乗り出した。
「だそうだよ。さて、しっかりと準備しなければね」
光司郎は狼狽する男らをよそに、屋敷を出る支度を始めた。
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