六、霞と糸くず⑥

 逆髪は、蝉丸と共に蔵の裏に埋めてやった。

 それからすぐに、蝉丸は感傷に浸る間もなく直義に言った。


「しばしここを離れます。その間だけでも、光司郎様をお守りいただけないでしょうか」


 頷く前に、直義は何があったのかと問うていた。


「光司郎様に少々危険な虫がまとわりついております。ただの虫退治ですので、すぐに戻ってまいります」


 それだけで穏やかな事態でないことはすぐに飲みこめた。しかしどういうことかと問いただしても、蝉丸はかたくなに詳細を言おうとはしなかった。


「何も知らぬままでは、私はどうにもできぬではないか」


 そう言ってしまってから、直義は慌てて口をつぐんだが、遅かった。


「お守りしていただけるのですね」


 嬉しそうに、しかし少し寂しいものを隠すように、蝉丸は声色を和らげた。すると、「それではお話いたしましょう」と、蝉丸は声をひそめて真相を告げた。


「実は、夏の初めに献上した人形に難癖をつけられまして、つい昨日、光司郎様は切腹を言い渡されたのです」

「切腹だと!」


 蝉丸はしいっと人差し指を立てた。直義は慌てて口をつぐんだ。

 穏やかでないどころか、とんでもない状況だ。つい昨日ということは、枇杷の葉を摘んだ後に見かけた、笠の男たちが使者だったのかもしれない。


「切腹のため上洛せよとの命が下りましたが、光司郎様はその命を断るとの文を御屋形様へ出されました。もちろんそんな文を一筆したためただけで解決することではございません。光司郎様もそれは重々承知の覚悟の上と笑っておりましたが、内心怖ろしい思いをされていることでしょう。あの後からずっと注意しておりましたら、真夜中に何者かが屋敷を探りに来た気配がありました。まだ生きていた逆髪が侵入者の頭の中を覗いたところ、今日の夕暮れに村二つ向こうの何某とかいう茶屋にて虫らが集まると言うので、後は私が始末するという手筈になっております」

「何故昨日言わなかった!」

「直義殿には心の整理に専念していただきたかったのです」


 そう言われては、言い返す言葉は見当たらなかった。光司郎への疑念を抱いたまま、今の蝉丸の策に介入することはどう考えても無理だった。


「上洛と言うが、一体誰に人形を献上したんだ?」


 わざわざ京に上って切腹するほどなのだから、鼻を高くした貴族にでも依頼されたのだろうか。しかし真相を前に、そんな考えは凡俗なものでしかなかった。


「太閤です」

「……まさか、嘘だろう?」


 あまりに突飛過ぎて、やっと出た言葉はそれだった。

 この国を統一してしまった天下の太閤にまで、光司郎の名が届いているとは思いもよらなかったのだ。


「嘘ではありません。光司郎様のお作りになる人形はそれほど珍重されているのです」

「しかし、何故難癖をつけられた? あの手の込みようなら、誰も文句は言えないはずだが……」


 蝉丸はよく動く。逆髪も柔らかな物腰で動いていたし、瑠璃は容姿がとびきり美しかった。瑠璃のような見栄えの人形ならば、たとえ動いていなくとも、その素晴らしい仕上がりに惚れ惚れするはずだ。


「瑠璃殿のことを思い出しておっしゃっていますね?」


 図星をつかれたことに驚いて頷くこともできなかったが、蝉丸はわかっているとでも言うように後を続けた。


「はっきり申し上げて、瑠璃殿が太閤の手に渡っていれば、このような事態にはならなかったでしょう。太閤が依頼してきた人形は、飛びきり豪華にしつらえた無垢な童。それも南蛮渡来の『びいどろ』という玉のようなものを瞳とした、でした」

 走馬灯のように、瑠璃をさらいに来た光司郎の言葉が頭を巡った。


――捨てたのは私じゃない――残念だけれど、返してもらうよ。あれは手間もかかったし一段と高価なものなんだ。代えはない――これは大切な献上品なんだ――あれに懸けるものは大きいのに、いつもすぐに見放される。儚いものだね。そうだろう、東直義――


 そして、この屋敷に押しかけた日の夜、囲炉裏の前で光司郎は自分に何と言った? とんでもないことを、あの時肩をすくめてそっけなくこぼし、それからくすりと笑ったのだ。


 血の気が引いた。瑠璃を引きとめたあの身勝手な行動がこんな事態を招いていた。切腹を命じられたのは自分のせいじゃないか。

 それなのに、あの癇癪持ちで皮肉屋の光司郎は、その事について悪態もつかず怒ることも責めることもしなかった。


 体が一気に冷めていく心地がした。自分のせいで光司郎が危ない。そう思うだけで、居ても立ってもいられなかった。


「大丈夫です、直義殿。早々に虫退治を済ませてまいります。ですから、その間、どうか光司郎様のおそばにいてさしあげて下さい」


 優しくなだめるように、蝉丸は言ってくれた。しかし自分のしてしまった事を考えると、冷静でいられるはずはなかった。


「私のせいで光司郎が!」

「直義殿、過ぎたことに気をとめていては、先へは進めません」


 蝉丸すらも自分を恨まず、励ましてくれる。今目の前にいる自分こそが、愛しい者が殺される理由を作った男だというのに。


「光司郎様は、それはもう、大層嬉しそうでした」


 一体何が?

 何の事かさっぱりわからなかったが、蝉丸の玉の瞳は、決して人を恨み憎む眼差しではなかった。

 蝉丸は声をいっそう穏やかにして続けた。


「人形を人のように扱ってくれる人物がこの世にいたことに喜ばれていたのは、我々人形以上に、作り手である光司郎様だったのです。あの光司郎様ですから、手放しに喜んでいたわけではありません。しかし人形作りの合間にふと柔らかい微笑みがこぼれるのを、私も逆髪も知っていました。ですから、光司郎様を託せるのは直義殿の他はいないと感じていたのです」


 人を恨み殺そうと企てていた自分が小さく見えた。


 光司郎の心は美しい。それはもはや、蝉丸や逆髪の幻想ではなく、直義自身が感じることだった。

 熱く苦しい心は、すぐに答えを出していた。殺される理由を作ってしまったのなら、なんとしても救わなければならない。


 直義は心に決めて、顔を上げた。


「虫退治はまかせる。光司郎のことは案ずるな。私がそばにいよう」

「そう言っていただけると信じておりました。これで安心して行くことができます」


 蝉丸は安堵で声をほころばせた。


 それでは早速と、蝉丸は光司郎に挨拶もなしに行くと言う。不要な心配はかけたくないとのことであったが、実際は、寿命について悟られたくなかったのだろう。

 もしや、蝉丸は捨て身の覚悟で行こうとしているのだろうか。逆髪が死んで弱っている光司郎に、次は自分がとは言い出せないのかもしれない。


 その辺りは自分がなんとか取り繕ってやるべきだと直義は意気込んだが、その意気はすぐに不要となった。

 母屋の戸口から、光司郎がこちらを見ていたのだ。


「蝉丸」


 光司郎の呼びかけに、蝉丸は驚いた。

 何をどう言おうか迷った蝉丸であったが、光司郎は全てを察している様子で、弱々しいけれど凛とした声でこう告げた。


「私のいないところで無様に死んだら、許さないよ」


 たったそれだけだったが、体にあらゆる感情がわき上がったかのように、蝉丸は大きく胸を反らせた。そして静かに、いつものように答えた。


「承知しました」


 そうして蝉丸は、未練と決意を映した背を向けて、山の木々の中に消えて行った。

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