六、霞と糸くず④
一通り屋敷の案内や食糧、果てはこの家計までも聞くと、二人の案内は終わった。
それから湯浴みをし、ひと段落がついた。
ここはやはりかなり裕福な暮らしをしている。玄米のある三度の食事に、豊富な食材。光司郎には真綿の布団もあるし、温かい夜着もある。生きた人形には相当な値が付けられているのだろう。
蝉丸は作った人形を納めている蔵があることや、ここより少し山の奥まったところに粘土を焼きあげる窯があることまで教えてくれた。
今は囲炉裏の部屋で、蝉丸と白湯を飲んでいた。とは言っても蝉丸は人形なので、白湯を飲んでいるわけではないが。飲んでいるのは自分だけだ。
しかし蝉丸と同じ空間を共有しているので、一緒に飲んでいると表現していいのではないだろうかと思う。
隣の部屋では、逆髪が縫物をしていた。布が擦れる音と、ちらほらと出始めた鈴虫の声がしんみりと響いている。
体がどしりと重かった。流されるままにこうしているが、どんどん荷が重くなっていっている気がするのだ。
真実を見極めるだけのつもりだったのに、光司郎の世話まで押しつけられてしまいそうだ。
嫌だとはねのけてしまえばいいものを、そうしない自分ももちろん悪い。しかし泣かせたまま放ってしまうのは気持ちが落ち着かない。
「本当に、もう時間がないのか?」
直義は率直に聞いた。もう明日明後日のことなのなのだろうか。もしもっと後のことなら、適当に濁して、適当な頃合いに姿を消してしまおうか。
しかし蝉丸は、さっそくその考えを挫いてくれた。
「はい」
まっすぐに言う。
直義は胸中で頭を抱えた。しかし蝉丸の潔さに何故かほっとして、同時に強い心に圧倒されていた。
蝉丸はまるで未練がないように見える。しかしそんなことはないはずだ。これまでの態度を見ていれば、蝉丸が光司郎に恋心を抱いていることはなんとなくわかる。
人か人形かは関係ない。心を持っているなら、そういう感情も持つはずだ。だから、愛しいものを他人の自分に託して死んでいこうと考えるのは、本当に強い心だと思う。
「私は直義殿が思うほど強くはありません」
心を読まれたかのようだったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「光司郎様は私や逆髪に人と同じように接して下さった。私たちにこの世の生をさずけ、意思や想い――総括して人格とでもいいましょうか。それを人形の私たちに見出して下さった。その恩返しがしたいだけなのです」
蝉丸は遠くを見るように、少し上の方を仰いだ。
「光司郎様はとても慈悲深いお方です。魂と肉体を取り扱う心身に負担のかかる仕事をされていますが、命あるものあったものをとても大切にしてくださるのです」
すると蝉丸は、
とても美しい澄んだ目だった。
「私の眼は玉でできています。この玉は、それはたいそう高価なものであったと、光司郎様は笑っておっしゃいました。なぜそのような高価なものを私なんぞに与えて下さったのかとお聞きしたところ、私の魂を以前持っていた者が盲目であったからだとお答えになったのです。逆髪も、艶やかな長い髪を持っております。髪が逆立って生えるという不思議な性質のために虐げられ死に追いやられた娘の魂が、今の逆髪とも聞きました。光司郎様はそうして私どもの魂を慰めて下さっていた。光司郎様は一見とても無慈悲なようにふるまわれますが、実のところ内にとても優しいお心を秘めておられるのです」
人形たちから見れば、光司郎は神のような存在なのだろうか。もしくは、母か。
蝉丸らの語る光司郎の人物像は、とても愛に満ちている。
「深く慕っているのだな」
そうならば、別れはさぞ辛いであろう。死とは一体どういうことなのか、本質的なことはよくわからないが、別れの辛さは身にしみてわかる。
「直義殿が光司郎様のおそばにいてくださるのなら、私は安心です」
忍の覆面をしているし、そもそも動かぬ人形の顔なのだからありえないのだが、直義には一瞬蝉丸が笑ったように思えた。
ひたむきな蝉丸の気持ちはよくわかった。光司郎を誤解してくれるなと訴えたい心も伝わってくる。しかし、ではなぜ自分が託されなくてはならないのか。
「蝉丸。お前の心はよく伝わるから、私の心も伝えよう」
直義は誠実な蝉丸への信頼を表するために、隠さずに伝えることにした。
「確かに宮江光司郎とは私が思った人物とは少し違うようだ。しかし面倒を見る義理があるのかどうかは難しい。光司郎は冴を助けようとしたが、結局は魂を取り上げてしまったのだろう? ならばこの屋敷に留まることは、冴や瑠璃を裏切ることにならないだろうか。確かに見極めるとは言ったが、助けてやろうとまでは思ってやれぬ」
蝉丸は少しうつむいた。
「承知しております。見極めていただく、ただそれだけのためにおそばにいて下さるので充分。孤独は辛すぎます。直義殿は、光司郎様を孤独から守って下さる」
もしかすると、逆髪は光司郎に別れを告げていないのかもしれない。蝉丸も寿命のことは話していないように感じる。
光司郎の慈愛に対する感謝までもこの自分に託して、二人は逝ってしまおうとしている気がした。
「直義殿が孤独から光司郎様を守っていただけるのでしたら、私は身を呈してお二人をお守りしましょう」
その言葉が引っかかったが、気にしすぎかとすぐに疑念を諭した。
蝉丸と逆髪は、計り知れないほど光司郎を慕っている。二人が光司郎のことを語ると、光司郎の像には直義には見えぬ優しさが見え隠れする。
光司郎の素顔を隠す霞がすっかり晴れた時、光司郎はどのような心を見せるのだろうか。蝉丸と逆髪が自分よりも光司郎の素顔を垣間見ているのが、少しばかり羨ましかった。
しかし光司郎を慕う蝉丸と逆髪の目から見ているからこそ、ほんの気まぐれの慈愛を模した心が際立って見えるだけではないだろうかとも思えた。どんなに酷い人間でも、母と思えば愛せる部分を幻視するのかもしれない。
やはり自分の目で見極める必要がある。
しかし、見極めたからといってどうする?
二人の人形が慈愛と謳うものが偽物であった場合には殺してやろうと、自分は虎視眈々と機会をうかがっているのだろうか。それとも、冴を看取った人物として光司郎を看取ってやろうとでも思っているのだろうか。
これではやはり霞がかかっているのは自分の心だ。
いつの間にか土間に立っていた逆髪が、湯気の立つ湯呑を持っていた。直義に差し出されたそれは、臭いの独特などくだみの茶だった。
「逆髪が申しております。人の心はとかく複雑ですが、網目のように絡まった細い糸くずがほどけた時、中にあるのは酷く単純な感情である、と」
逆髪を見ると、逆髪は優しく頷いた。
「光司郎様も直義殿も、糸くずが多少やっかいな絡まり方をしているだけなのでしょう。誰でも糸に絡まり、身動きがとれない時があるのです。我々は死期を前に、少し糸くずがほどけたのかもしれません」
そう言ってから、「いや、出過ぎたことを申しました」と蝉丸は笑った。
「しかし、我々が光司郎様にずっと差し上げたかったものを託すことのできる人物に出会えて、本当によかった」
「まだ時間があるのなら、自分たちで渡せ」
すると、蝉丸は少し寂しそうな声で言った。
「直義殿でなければ、気付いていただけませんので。ものが何か気になるようでしたら、逆髪がしたためた文をお読みください。読んでいただければ、きっとわかります」
そんな不思議な会話のすぐ後に、直義は床に就くよう急かされた。
畳の客間に通してもらい、逆髪はどくだみの茶を置いて、結局一言も声を出さずに深く頭を垂れて裁縫の部屋に消えた。
逆髪の思いを汲み取ろうと茶をすすった。
独特な薬臭い香りに、なんとしても光司郎に生きてもらいたいのだという切なる願いが見えて、心が重たくなった。
逆髪はなぜ喋らないのだろうかと考えながら眠ったが、いつの間にか
いつか見た牡丹の花が、美しく咲き誇っていた。ただそれだけだった。
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