六、霞と糸くず③
多分怒らせてしまったので、光司郎がどうするか気になっていた。
しかし光司郎はしれっとした顔で夕餉の席に現れた。本当にそっけなく、まるで直義が見えていないように。
光司郎の一口は、永遠に噛み続けるのではないかと思うほど、長い咀嚼だった。直義が食べきってしまっても、光司郎の皿の上はなかなか減る様子を見せない。
汁物は綺麗に飲むが、固形物は避けるように残してあった。
少しむせて咳が出ると、もう食べ物に手をつけようとはしなかった。
光司郎が席を立つ前に、直義は冷ましておいた土瓶の中身を湯呑に注いだ。一度もこちらを見ようとしない光司郎に、直義は湯呑を差し出した。
やっと向けられた視線は、警戒するようにこちらを探っていた。
「薬を作った。枇杷の茶だ。どれだけいい薬になるかは知っているだろう。毒など盛っていないから、嫌でも飲んでおけ」
直義は一口飲んで無毒を示し、訝しげな光司郎の前にもう一度とんと置いた。
「良薬だが口に苦くもないぞ」
光司郎はしばらく茜色の枇杷茶を見つめていたが、手をつけずに席を立った。
「蝉丸」
鋭い光司郎の声に、蝉丸はすでにしゃんと伸びている背筋を慌てて正した。
「客人には早々に引きとってもらってくれ。人形作りの邪魔だ。行くあてがないと言いだすなら、銭袋の一つでも持たせておやり」
ずいぶん落ち着いた喋り方だったが、刺々しい張りがあった。
そんな威圧感に責められても、正直すぎる気質の蝉丸は頷けないで困っていた。
しかし蝉丸が責められるのは申し訳ないので、直義は代わりに言ってやることにした。
「私は蝉丸に雇われた薬師だ。しばらくここに留まるよう約束した」
「なるほど、お前の雇い主は蝉丸か。では蝉丸の主が命令しよう。蝉丸、薬師はいらない。この男に働いた分の駄賃を渡して出て行かせなさい」
余計に蝉丸は睨まれてしまったが、今度は蝉丸も言葉を返した。
「しかし光司郎様、近頃お加減がすぐれないのでしょう。そのお体で人形作りをされるのでしたら、どうか薬の一つでもお飲みになって下さい」
光司郎はいっそう強く、蝉丸を睨みつけた。
「聞こえなかったのかい?」
語気を強めて言うが、ヒュッと喉が鳴ると、咳が溢れだした。息もつけないほど咳き上げてよろめくので、直義は思わず腰を浮かせてしまった。
「大丈夫か……!」
咄嗟に支えてやろうと手を出したが、光司郎はぱしりと叩き落した。
「何が薬師だ。こんなんじゃ休めやしない。とにかく、私を一人にしてくれ」
声を低くして、真っ白な顔でそう言うと、光司郎は体を引きずるように母屋を出て行った。
どう見ても重病人だった。そんな光司郎の背を、蝉丸と逆髪は寂しそうに見つめている。
「見苦しいところを見せてしまい、失礼いたしました」
うな垂れた蝉丸が、小さく呟いた。
「気にするな。お前は悪くない」
あの賭けは、相当光司郎の心を乱してしまったようだ。
人殺しの濡れ衣が晴れたというのに、何故涙を見せたのだろうか。いくら男の姿をしていても、意図せぬと言えどあんな風に涙を見せられては、おなごを泣かせてしまったという情けない罪がのしかかる。
直義がため息をつきたい気持ちでいると、代わりに蝉丸が「ああ」と呟いた。
「どうした?」
蝉丸と逆髪は、光司郎の食器を覗いて肩を落としていた。
食器には食べ物がほとんど残っている。
「もうずいぶんとこのご様子なのです。人の体はものを食べぬと干からびると聞きました。このように食欲がないから、昨日の発作が起こったのではないかと逆髪は案じております」
逆髪は心配そうに光司郎の椀を持っている。
「逆だ。あの体調だから食欲がわかぬのだろう」
玄米を飲み込むのにかなり時間がかかっていた。咳に耐えて喉がずいぶんと細くなっているのだろう。
「明日からは粥か重湯にしてやってくれ。少しは飲み込みやすくなるはずだ」
しばらく何かを考える様子を見せてから、逆髪は小さく一度だけうなずいた。
意味深なその沈黙に疑問を持ったが、蝉丸に呼び止められたので、その先の思考は断たれた。
「直義殿」
蝉丸が改まって立っている。
「この屋敷の勝手などをご説明しておきます。食べ物や食器の場所など、ご存じなければこれから不便になりますので」
「どういう意味だ?」
怪訝に思って訊ねると、逆髪がかしこまってお辞儀をした。
「この夕餉が、逆髪の最期の料理なのです」
昨晩の蝉丸の言葉を思い出した。
死期が迫っていると言っていたのは、本当のことらしい。
直義が思わず口をつぐむと、蝉丸は言った。
「私も、もうどれくらい持つか知れません。死期がわかるのは辛いものですが、死の間際に直義殿に会えてよかった」
蝉丸が逆髪をうかがうと、逆髪は
ためらいがちに受取ると、蝉丸が言葉を添えた。
「逆髪がしたためました。自分が消えてしまった後で、気がついた時にでも読んでいただきたいと言っております」
逆髪は、こくりとひとつ頷いた。
「それでは、逆髪と私でご案内いたします」
直義はとりあえず文を懐にしまい、ためらったが、結局は流されるままに二人の後へ続いていた。
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