六、霞と糸くず⑤
優しい青空に、ぽつりぽつりと足跡のように雲がある。
涼しくなった風の吹きこむ部屋に、動かなくなった逆髪は横たえられていた。
「人形蔵の裏に埋めてやりな。邪魔なだけだからね」
早朝。逆髪の死を知った光司郎は、そっけなくそれだけ言って、人形作りに行ってしまった。
蝉丸は相変わらず「承知しました」と言いつけを守り、抜け殻になった逆髪の体をせっせと外へ運ぶ。
蝉丸と逆髪が慕う光司郎とは、やはり二人の幻想にすぎなかったのか。逆髪はあれほど光司郎を慕っていたというのに、この仕打ちは逆髪が哀れだ。
さすがに腹の底が煮えるような思いで、直義は光司郎を追った。
「おい!」
作業場の縁側のある部屋へ行くと、光司郎は布を引っ張り出しているところだった。
直義が言わんとしていることを理解したのか、やれやれと肩をすくめた。
「逆髪はもういない。あそこに転がっていたのは、ただの人形だよ。帰る気がないのなら、あんたも片付けくらい手伝ったらどうだい。いい加減帰ってもらいたいのが本音だけれどね」
その冷めた物言いに我慢ならなくて、怒鳴っていた。
「
「弔う?」
光司郎は声をあげて笑った。
「もういない人物を慰めようって? 何のために?」
光司郎は一転して、すうっと目を据えて続けた。
「それで死者がよみがえるのならそうしよう。でも慰めたって、何も起こらないじゃないか。弔ったって、よみがえれないんじゃ意味がない。未練をずるずる引きずるだけだよ。それならいっその事さようならと突き放して、次の人生に旅立ってもらった方がいいんじゃないかい? それが輪廻転生ってものだろう」
直義が言い返す隙を与えず、光司郎は一気に言い放った。
光司郎は強い眼差しをじっと向けた。
「魂って何だろうね」
あの問いかけだ。
「たとえ私が、寿命の前に逆髪の魂を左手ですくい取って、右手でもう一度逆髪の体に入れたとしても、逆髪は戻って来ない。そこには別の意思が生まれ、別の思考をつくり上げる。逆髪の魂なのに、逆髪とは違う人格が出来上がる。人はうまいことよみがえれないようにできているのさ。そんな風に思うと、生きていること自体が滑稽なことに思えてくるよ」
最後の方は失笑だった。
「死ねば思いも消えてなくなるとでも言うのか」
直義は語気を強めた。光司郎の考えを許すことができなかったのだ。
「誰のために残した思いかも理解しようとしないで、お前は逆髪を本当に理解できていたのか!」
光司郎の眉がぴくりと動いた。
「確かに死後の世界など本当にあるのかわからぬから、人は死んだ時点で消滅してしまうのかもしれない。しかし生きている私たちは違う。まだここにいるんだ。私たちの心の中に逆髪を生かすことで、私たちの生き方はほんの少しでも変わっていくだろう。それでも本当に逆髪が消えて無くなってしまったと言い切れるのか!」
しばし呆気にとられたように目を見張っていた光司郎であったが、次に直義の深淵を見透かすように、試すような笑みをしっとりとたたえた。
「なるほど。それなら、あんたの心には冴と瑠璃が住んでいるんだね。二人はあんたにどんな思いを残していったのかな?」
傷口をえぐられるような痛みが、胸を貫いた。わかっていれば、自分の心さえ霞にかかることはない。この女は、魂どころか人の心までも弄ぶのか!
「もう帰れない。苦しい、嫌だ。……そう言って死んでいったよ、あんたの最愛の人は」
蒼白な無表情で告げられた。
あばら家に住む前に捨てたはずの痛みが、全身を駆け巡った。
自分が知らぬ間に、身も心もずたずたにされて、そんな言葉しか残せないで冴は逝ってしまったと思うと、かわいそうでならなかった。
誰が致命傷を与えたかという問題ではない。こんな人間に看取られたところで、死ぬ前に地獄に突き落とされたようなものではないか。
なんと無慈悲な女だ! 死者を冒涜し、生きている者の心も殺そうというのか。
もう我慢ならぬと、直義は腰の小刀に手をかけようとした。
その時、風のない中でふと花弁が散るように、光司郎の言葉がぽろりと落ちた。
「何もできなかった」
蒼白な顔をうつむかせ、か細い声を絞った。
「それどころか、私は魂を抜きとってしまった」
白く細い両手を見下ろしていた。その手は、少し震えているようにも見える。
「神の手と言われながら、魂はこの両手をすり抜けて、いつもどこかへ行ってしまう。何が魂を操る両手だ」
光司郎は己の手を強く握りしめ、何かを堪えるように声を落として言った。
「ごめん」
短刀にかけようとした手には、もう力が入らなかった。
魂が消えゆくのを感じられる人間は、それこそ自分などには想像できないほどの重圧に耐えていたのか。
そう悟ってしまうと、光司郎の心に刻まれた数々の生傷が見えた気がした。
光司郎は霞を、糸くずを、まるで高い壁のように張り巡らせて自分を守っているように思えた。しかしその壁は、やはり霞であり、ただの糸くずだった。
脆く剥がれ落ちそうな壁の中で、光司郎はいつも押しつぶされるのに必死で耐えているのかもしれない。
胸の奥が熱く騒ぎ、ぎゅうと捻じ曲げられるように苦しくなった。
「逆髪はお前を深く慕っていた。お前の両手の力で生かしてもらおうなんて、これっぽっちも望んではいなかった。ただただお前を思って、毎日食事を作り、どくだみの茶を沸かしていたんだ」
光司郎の肩は強張って震えていた。握りしめられた白い手に、雫が一滴落ちた。それに自分でも驚いた様子で、光司郎は慌てて目を拭った。
その仕草は、どこにでもある普通のおなごのものだった。
直義の生傷もまた、痛みを伴いながら蠢いていた。
しかしそれは、まるで薬を塗りつけられた時のような、治る兆しが見える痛みのような気がした。
「変なところを見せてすまなかったね。もう行ってくれ」
しばらく何か言ってやろうと立ちすくんでいたが、結局は何も言うことなく、直義は母屋を去った。
思いがけず目の当たりにした光司郎の一面は、蝉丸と逆髪の見る像と近いものがある気がした。
しかしそれも、偶然目の前で剥がれ落ちた壁の隙間から見たものにすぎない。
人に心を許した本当の光司郎は、どんな風なのだろう。
一面ではなく、全てが知りたい。強がった奥に秘めた心は、まるで清水の湧きでる泉のように清らかではなかろうか。
熱い何かが胸を締め付けた。苦しいほど締めつけて、息をするのも億劫だった。どうしてそんな気持ちになるかはすでに悟っていた。しかしその心を許すわけにはいかない。認めるわけにはいかないのだ。
この心の中で、冴と瑠璃は見ている。
しかし確実に、光司郎を仇と見ることは不可能になっていた。
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