人形師 ―神の手を持つ者の選択―
やいろ由季
一、青い目①
もう初夏に差し掛かっているというのに、今夜は随分と空気が冷たかった。
いくら酒を飲んでも火照らない。飲み過ぎて、もう酔いすら回らなくなってしまったのだろうか。
明日の分だと残しておいた
酔いが回っていないと感じたのは、気のせいだったようだ。それにしても、冷える。
起きるのを諦めて仰向けに寝転がった。少し顔を傾けると、囲炉裏にはちろちろと炎が揺らめいている。炎が薪を食い切る音が、狭いあばら家にパキンと響いた。
薪の割れる音がこんなにも大きいと感じるようになったのは、つい半年ほど前のこと。それまでは平和な会話の中に、このような音などはかき消されていた。
しかし今は、このあばら家には自分しかいない。だから薪の悲鳴はよく聞こえる。この音すらも気にならなかったほどの平和な会話の、あの愛しい声はどこへ行った。真冬でも温かな花のようなあの笑みはどこへいったのだ。
自問などは無駄で、結局のところ現実はここにある。孤独との生活は、もうしばらくすればきっと慣れるはずだ。
しかし、この言葉を一体何度繰り返しただろうと考えてしまい、余計にやるせなくなった。戦だらけの物騒な世の中、近しい者を失うことは珍しいことではないというのに。
野花のように笑顔を咲かせる妻は、極寒の雪道で死んでいた。惨い殺し方だった。腹が割かれて目も潰されていたのだ。
つい二年前ようやく二十三にして娶ったばかりの妻を、そんな形で亡くした自分に、周囲は同情した。
しかし心にできた酷く冷たい腫れものは、同情に撫でられると痛みを増し、遺品の残る家にいるだけで激痛をともなった。
ついに東吉は家を飛び出し、しばらく放浪して、無人だったこのあばら家をひと月ほど前に見つけて住みついている。
この生活は孤独すらないはずだった。
孤独と思うのは、かつての生活を恋しく思う心から湧きあがる感情だろう。だから、それ自体を捨てるために移り住んだこのあばら屋には、孤独すらあってはならなかった。
そうだ、孤独と感じる心は必要ない。最初から、孤独以上のものなんてなかった。だから独りで充分だ。独りで酒を飲んで夜を明かすのも、慣れてきたのだから。
そんな自分を頭のどこかが哀れんだが、知らぬふりをした。
すうっと、冷たい隙間風が首筋をなでる。
つい昨日、鼠があけた穴を見つけてふさいだところだったが、まだ風の通り道は多い。
もう夏に移ろうとしているので最近は気にならなかったが、今の妙に冷えた風には、首筋に冷水の一滴が落とされたような不気味な悪寒を覚えた。
しんと静まり返った夜。
感覚を研ぎ澄ませると、すぐそばの森の静けさが肌でぞわぞわと感じられる。森は今、獣の刻だ。
強い風が吹いたようだ。
幾つもある隙間から入ってきた風の残骸が、細い唸り声をあげながら囲炉裏の火を躍らせた。
不意に遠くの方から、珍しく人の声が聞こえた気がした。
何事かと痛む頭を支えながら体を起こし、東吉は耳を澄ましてみた。すると、また声が聞こえた。
尋常ではない、男たちの悲鳴だ。山賊でも出たのだろうか。
山賊か、と東吉はぼやいた。
実は妻を殺したのは山賊ではなかろうかと、東吉は考えていた。怨恨はありえない。あの明るく朗らかな妻が、人から恨みを買うはずはなかった。
だから殺したのは山賊だ。そうに違いない。
東吉は刀を持ち、あばら家を出た。
山賊から人を助けてやることは武士の家に生まれた者の成すべきことだ、というのは美しい建前だ。心の中ではどろどろと復讐心が膨らんでいる。
こんなところで仇に出会うとはなんという好機だろうかと、小枝や枯葉を踏みしめる音に気をつけながら、慎重に森を進んだ。
夜の森は静かすぎた。いつの間にか、人の気配も獣の気配もなかった。もしや悲鳴などは孤独に狂いそうになっている自分が作り出した空耳だったのではないか、とまで思い始めた。
木々さえも黙ってしまい、この場にたった独り取り残されたようで、無性に寂しくなった。
まさか物の怪でも現れるかと連想すると、今度は恐怖が湧きあがり、あるはずのない目にじろじろ見られているような錯覚さえ覚え、震えあがった。
考えれば考えるほど、気配は一切ないのに、誰かに見られているような気がしてならなかった。
少し奥の山道に、大きな灯りが揺れていた。
誰かいるのだろうかと、半ばすがるように駆け寄ったが、松明が道に転がっているだけだった。やはり悲鳴は本物だったようだ。
東吉は松明を拾い、悲鳴の主を探した。
「誰かいるのか!」
叫んでも、声は森の先の見えない暗闇の奥へ吸い込まれて、それっきりだった。
この暗闇に自分までも吸い込まれてしまいそうな気がして、東吉は足がすくんだ。
酔いは醒めている。
急に澄み渡り始めた頭は、この世のものではない何かがここにいると告げていた。
誰がこちらを見ているのだ。じいっと、人でも獣でもない異形の目が、この闇の中で。
ガタガタ
すぐ足元で音がした。
反射的に松明を向けると、そこには棺桶のような大きな箱が照らされた。
単なる大きな箱として見ればいいものを、この異常を臭わせる静けさが棺桶を連想させた。
大きさから推測するに、子供のものだろうか。
ガタガタ
動いたのは、まさしくその棺桶だった。
いや、棺桶ではない。棺桶の中身だ。
箱の傍らには、細長い木が、ほどかれた縄と共に転がっていた。悲鳴の主の男たちが、これを担いで運んでいたのだろうか。
蓋の下から、カリカリと音が鳴る。一体、何が入っているというのか。
いつの間にか生ぬるさを帯びた空気が、首の周りに漂っていた。開けてはならぬと、もう一人の自分が叫ぶ。
東吉は一目散に逃げようとした。その時だった。
ドン!
箱が今までと比べようもなく大きく動いたと思ったら、弾けるように蓋が飛んだ。
「うわっ!」
東吉は、心の臓が飛び上るほど驚いて、尻もちをついてしまった。
松明も東吉の手から放り出されてしまっていたが、運よくそこは小さな道であったので、草に燃え広がることなく土の上で力強く燃えている。
しかし松明に一度落とされた視線は、それ以上動かせないでいた。
この暗闇の森に、松明の灯りが届く範囲に何かが立っていたのだ。
恐怖で視線は足元の松明に固定されているのに、どうしてこのような状態で好奇心が湧いてくるのだろうか。
見てはならないと直観が言っているが、どういうわけか見なければならないような気もしてくる。
脂汗が額に滲んだ。
棺桶の中に立っている何かは、確実にこちらを見下ろしていた。
東吉が顔を上げるのを待っているかのように、ただじっと、そこにいる。
ついに東吉は魔性の好奇心に負け、ぎこちなく首を動かして松明の灯りに浮かび上がるそれを見上げた。
すぐに、見るのではなかったと後悔した。
体は金縛りにあったように動かなくなり、空気をひゅっと吸い込んだまま呼吸も止められた。視線もそこから外せない。目の動きすら、それに捕らわれてしまっている。
気持ちの悪い汗が、一気に噴き出た。
ゆらめく炎に照らし出されていたものは、ぞっとするほど不気味なものだった。
まず目に入ったのは、驚くほど白い肌。そしてまっすぐにそろえられた前髪の下の、今にも飛び出そうな大きい目。長いまつげに縁どられたその目は、喰らいつかれるのではないかと思うほど大きく見開かれている。
そしてその大きな目は、不気味に青色に光っていた。
声は出せなかった。声の破片が、喉に詰まる。体が固まって立ち上がることすらできない。四肢が震えていることも自覚できた。その震えは、ある直感からくるものだ。
そう、今目の前にあるものは、生きた人間ではない。
次の瞬間、それは箱の中に崩れた。ガシャンと人ならぬ音を立て、箱におさまった。
東吉はそれでもなおしばらく動けないでいたが、自分の鼓動と呼吸が爆発しそうな勢いであることに気づき、ようやく呼吸を整えようと努めた。
今の光景は何だったのか。夢か。だが、この手の震えは真実であったと物語っている。
東吉はようやく松明を手にとった。恐る恐る箱を照らし、また言葉を失った。
照らしだされた箱の中は、子どもの死体だった。毛先の揃えられた豊かな髪に、赤の上等の着物を着て、まるでどこかの姫のような豪華な装いだった。かたわらに毬も転がっている。
先ほど大きく見開いていた目は閉じられていた。そしてよく見ると、血の通わない肌は真っ白な陶器のようであった。
「人形……?」
松明を近づけた。すると、長いまつげの目が、突然大きく見開いた。
東吉は大きな悲鳴を上げていた。人形は生きている。
ぎりぎりと人にはない音を立てながら不安定に起き上がり、箱から這い出ようとするのだ。その人形は、作られた口をカタカタと鳴らした。
「名をおくれ」
人魂のような青の目が、東吉に迫る。
奇妙な関節の音とともに、それは東吉にじりじりと近づいてくる。
東吉は息ができないほどの恐怖に、体の自由が奪われていた。吹き出た汗が、首筋を流れる。
こんなものが、この世にあるのか。
「名をおくれ」
関節がむき出しの生気のない白い手が、東吉に伸びた。
しかしその手は、乱れた東吉の息に触れそうなほどまで伸びたところで、また突然ガシャンと崩れた。
しばらく経っても、それが動き出すことはなかった。
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