一、青い目②
一睡もできず、夜が明けた。
夜の森の出来事は遠い昔のようにも思えるが、嘘だったと否定はできない。
確固たる証拠が目の前にある。あの起き上がる人形は、すぐそこで眠っているのだ。
箱の中から這い出ようとした人形は、あれからぴくりとも動かなくなった。
あのまま置き去りにすることもできたし、穴を掘って埋めてしまえばいいとも思ったが、それはできなかった。そんなことをして呪われでもしたら厄介だ。
人形は稀に魂を持つと聞いたことがある。
しかしこうして持ち帰ってみても、厄介に変わりはなかった。こんな気味の悪い人形は、置いておくだけでも災いがありそうだ。
実際この人形のせいで安眠すらできない。
「寺にでも持っていくか……」
供養してもらい、縁を切ろう。
東吉は山を降りるための簡単な荷造りを始めた。
その時、背後でぎぎぎと不思議な音がした。
人形が動いていた。
ぞっとするほど美しい目を大きく開け、思い通りにならない関節で起き上がろうとしていたのだ。
東吉は息を短く吸って、やはりその光景に金縛りになった。
人形は自分の頭もうまく支えられないようで、首が変な方向に曲がっていた。それでも両目は東吉をとらえ、不安定な両腕を張って上半身だけ起き上がった。
「名をおくれ」
それだけ言うと、また人形は安定をなくし、ガシャリと崩れた。だが、何度も必死に起き上がろうとする。
不気味であるが、それが健気に見えて、東吉は恐る恐る人形に近づき、手を伸ばした。
噛みついてくるかと思いきや、人形は東吉に害を加えることなく、その指が触れるのを許した。
陶器の肌はやはり冷たかった。しかしその無機質な感触は、なぜだか人形の孤独を連想させた。
東吉は人形の上半身を起こしてやった。ゆっくり手を離すと、安定したようだ。
座った姿になった人形は、じっと東吉を見ている。
しかし次に、人形は足に力を入れ始めた。
「おい、立つ気か?」
人形は、奇怪な音を立てながら、足を震わせる。
「名をおくれ」
「わかったから、立たなくていい」
人形は名を求めて歩こうとしているのだろうか。
ならば、名を与えればじっとしてくれるだろう。
東吉は気が進まなかったが、人形に適当な名を与えることにした。
しかし名を与えようとも、いいものがなかなか思いつかない。
しばらく腕を組んで考えた挙句、最初に思いついたものに決めた。
「
「ル……リ?」
「目が瑠璃色だから瑠璃だ」
最初は青だと思ったが、よく見るともっと深い色で、瑠璃色という表現がふさわしい。
そんな色の
「ルリ、るり、瑠璃……」
人形はしばらく大きい目をぐるぐると回した後、東吉に向いて言った。
「瑠璃は瑠璃」
「そう。おまえは瑠璃だ。これで満足か?」
瑠璃の首が、カクンと変な角度に曲がった。
「名をおくれ」
東吉は眉根を寄せた。
「瑠璃という名を与えただろう」
「名をおくれ。名をおくれ」
瑠璃の腕が、ギチギチと音をたてた。
ぎこちなく上がったその手は、東吉を指さしている。
「名をおくれ」
「私の名か?」
瑠璃の首が、また違う方向にかくりと傾く。
人間ならば不自然すぎる角度のその首で、大きな目をいっぱいに見開いて東吉を凝視している。
その光景は不自然であったが、どういうわけだか今は不気味な感じはしなかった。
東吉は思わず声を出して笑い、瑠璃の首を真っすぐに直してやった。
「私は東吉だ」
「トウキチ」
「東吉」
「東吉」
「そうだ」
大きな目をぱちくりとさせていた瑠璃だったが、また突然首が傾いた。まるで首の据わっていない赤ん坊のようだ。
東吉はまた笑ってしまった。こんなものに昨晩は肝をつぶす思いをさせられたのか、と。
久々に大いに笑ったが、瑠璃はわけがわからないようで、傾いた首のまま東吉を見て目をしばたたいているだけだった。
◆ ◇ ◆
首が据わると、次は立ち上がる練習だった。
瑠璃が自分の煌びやかな長い裾を踏んでしまわないように、上にひき上げて紐でとめた。
すると少しは立ちやすくなったようで、半日で立ったり座ったりができるようになった。
うまく覚えるので教える方も嬉しくなり、東吉は瑠璃の両手を持ち、歩き方を教えてやることにした。
「そうだ。右を出したら、左。左を出したら右だ。膝を曲げるとうまく歩ける」
瑠璃が視線で疑問を投げかけてくる。
東吉は着物の下に隠れた瑠璃の膝を軽く叩いた。
「ここが膝だ。曲げられるだろう?」
瑠璃は自分の膝をまじまじと見ていたと思ったら、突然膝を曲げた。両足を一気に曲げるので東吉は慌てて瑠璃の両腕を引っ張った。
危うく瑠璃の体が地面に叩きつけられるところだった。
「それでは尻餅をついてしまうぞ。お前は壊れやすいのだから、気をつけてくれ。曲げるのは片方ずつだ」
瑠璃は小さく首をかしげてから立ち上がると、ぎこちなく片足の膝を曲げながら、先ほどよりは幾分もなめらかに歩き始めた。
「うまいじゃないか、瑠璃」
東吉が笑って言うと、瑠璃は大きく頷いた。
陶器の顔は表情を変えないが、瑠璃の心は笑っている気がした。そう思うと、瑠璃の動きの一つ一つが微笑ましく思える。
人形に心を見出すのは可笑しい気もしたが、自我を持ち動く瑠璃は特別に違いないと東吉は思っていた。
東吉は、もう瑠璃を寺で処分しようなどとは考えていなかった。一緒に暮らすうちにそう思うようになったのではない。名を与えたその時に、心のどこかでこうなることを覚悟していたような気がしていた。
どう見ても人間ではないのだが、確実にこの人形は生きている。
陶器の顔は表情一つ変えないが、瑠璃は言葉や動きの中に感情を見せた。そこには笑顔も見出せる。
「東吉、笑ってる。瑠璃も笑いたい」
「お前も笑っている。良い笑顔だ」
東吉は瑠璃の頭を撫でてやった。
人形と会話し人形と共に暮らすのは、端から見ても随分可笑しいと思う。
もしこれを他人が見たのなら、孤独の生活で気が狂ってしまったのではと思うだろう。
しかし動く瑠璃を目にすると、そのような考えも拭えた。やはり動く人形は実在しているのだ。
瑠璃が現れてから生活は変わった。
薪の声しか響かなかったあばら家に、会話が生まれた。その会話の中で、発する声と共に心の膿が吐き出された。
代わりに、笑い声の間に吸い込む空気から、温かい何かが腫れものを癒した。
ここにきてから浴びるほど飲んでいた酒も、ぱったり飲まなくなった。もともとあまり飲まない方だったので、ひとたびやめると体の調子が良くなった。朝はだるくなくなったし、頭も痛くない。自ずと気分も明るくなり始め、無精髭も綺麗に剃った。
瑠璃が来てから、全てが少しずつ良い方向に向き始めている。
瑠璃は生きている人形だ。いや、人形ではない。もはやそれは生身の童だ。
まだ何も知らない無垢な瑠璃。この子に、これから色々なことを教えてやろう。
歩けたら走ること、飛びあがること。外に連れて行くのも良い。草木を触らせて、朝の太陽や夜の星空も見せてやろう。
「もう少し歩く練習をするぞ。うまくなったら、外に出て花を見せてやろう」
「ハナ? ハナは何?」
「花とは美しいものだ。見ていて心が和む。そうだな、もうそろそろ菫も見られるだろう」
「スミレ?」
瑠璃の頭をぽんぽんと叩いてやって、東吉は言った。
「優しい紫の、上品な姿の花だ」
優しい笑顔で草花が大好きだった。中でも一番好きな花は菫だった。
上品に流れる髪を束ねた後姿を思い出す。
振り返った時のあの笑顔、利発で美しい仕草。控えめに春風に揺れる、しとやかな姿。
まさに菫のように咲く微笑みは決して忘れられなかった。あれを壊したのは誰だ。
しかし東吉は、燃え上がりそうな心に、自分の手で水をかけた。
他人ばかりは恨んではならない。守ってやれなかったのは、この自分だ。
「東吉」
瑠璃の声で我に返って、東吉は「すまない」と言って、瑠璃の両腕を支えた。
「ほら、もう少し練習するぞ」
今は瑠璃がいる。この人形が、心の支えになっていることはとうに自覚しているのだ。
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