八、光④

 夜着をかけてやり、しばらく黙って傍に座っていることにした。


 胸が苦しかった。どうすればこの心が届くだろうか。

 どれほど言葉にしても態度に示しても、ヒカルはかたくなに拒絶する。それが真意でなく、あの糸くずや霞に似たものだというのはわかる。

 しかしヒカルにしつこく絡みつくこの糸くずは、自分の手でほどいてやることはできないのだろうか。


 直義は頭を振った。今一番に考えるべきことはそれじゃない。どうやってあの黒い手からヒカルを守るかだ。

 魂を操る手を持たぬ自分は、どうすればヒカルの魂を守ってやることができるのだろうか。


 相手は黄泉の国の番人ときている。ならば黄泉の国へ行けば、対峙することはできるだろうか。

 いいや、無理だろう。ヒカルが見せてくれた、あの蛍のような光になってしまうだけかもしれない。そうなれば、文字通り手も足も出ない。


「くそう」


 いつの間にか口からこぼれていた。ヒカルには聞こえていなかっただろうか。ヒカルを見ると、夜着の中で咳もなく静かに眠っているようだった。


 愛しい人。私ではお前を幸せにできないのだろうか。


 大きな目元に、引き締まった薄い唇。美しい彫刻のような繊細な顔は、かなり痩せてしまっている。隈は薄まったが、蓄積されてきた精神の疲労が寝顔に浮かび上がっていた。


 床に差し込んでいた茜色の光は、いつの間にか薄青い月の光に変わっていた。

 みるみるうちに時は過ぎてゆく。このままヒカルの命をさらってくれるなと、直義は祈り続けた。


 夜は全てをなだめるように静かだ。

 その静けさに苦悶する心を預けていると、ぞろぞろと人の足音が近づいてくるような音が聞こえた。


「人形師、宮江光司郎! 出てまいれ!」


 唐突に、屋敷に男の声が響いた。


「御屋形様の使いである! 出て来ぬなら、上がらせていただくぞ!」


 蝉丸はどうした? まさか、こんなにも早く手が回ってきたのか。


 直義はすぐそこに置いていた刀を取って、柄に手をかけた。腰を浮かせて母屋をうかがうと、裾を何かが掴んだ。


「私の仕事だ。下がっていてくれ」


 寝ていたと思っていたヒカルは、芯の通る声で言った。しかし体を起こすので精一杯に見える。


「どうする気だ! その体では……」


 伏し目をすっと上げた瞳には、氷柱のような冷たい光が落ちていた。大きく深呼吸をすると、着物の襟元を整え、背をぴんと伸ばし、ヒカルは光司郎をまとった。


 何人かが母屋に乱暴に上がり込んだ。荒々しい足音を立てて屋敷内を回り、そしてほどなくして中庭にやってきた。


 一番にやってきたのは、鎧に烏帽子えぼしを被った武士であった。

 次に背丈より長い棒を持った笠の男たちが二人と行灯あんどんを持った男二人が、烏帽子の男の後ろに控えた。


「お前がくだんの人形師、宮江光司郎であるな」


 ヒカルは縁側の下に立つ男を見据えながら、冷笑を漏らした。


「わざわざ来てくれたというのに、出迎えができなくてすまなかったね。見ての通り体の調子が優れなくてね」


 その言葉がまるで嘘のように、ヒカルの声は凛としていた。

 無理してそうしているのはわかっているが、直義は焦燥を堪えた。


 烏帽子の男は直義を一瞥すると、声高に言い放った。


「御屋形様より、上洛の命令が出ている。おとなしく上洛するなら駕籠に乗せよう。拒むのであれば、力尽くで連れ出すまで」


 そこまで言ってから、烏帽子は直義に向いた。


「その男、手出しすればどうなるか知れぬぞ」

「貴様!」


 つばを押し上げ腰を浮かしたところで、唐突にヒカルの甲高い笑い声が響き渡った。

 独特の威圧が一帯を押し込める。ヒカルは嘲罵の鉾を掲げた。


「やっぱり御屋形様も切腹を望まれているんだね。これは滑稽だ! 私はあいつに生かされて、あいつの都合で殺されるのか! なんて自分勝手な人間だろうね!」


 狂ったかと、烏帽子がぼやいた。

 それが聞こえたのか、ヒカルは嘲笑を殺し、その代わり、にたりと笑って蛇のように烏帽子を睨みつけた。


「そんな安い手駒にはならないよ。誰を敵にしようとしているのかわかっているのかい? 私は魂を操る人形師だ。あんたたちの魂を操るのなんて造作ない。肝試しのついでに、美しい人形に生まれ変わって、私に可愛がられるのがお望みかな?」


 ふるふると身を震わせて、烏帽子は抜刀した。


「二度とその口利けぬようにしてくれる!」

「させぬ!」


 直義が刀を抜き、烏帽子の太刀を受け止めた。


 その直後、悪寒の筋が幾重も通り過ぎた。

 それはまるで何本もの冷気の手が伸びてくるようだった。その気を真正面に浴びたのか、抜刀した烏帽子は顔を真っ青にして立ちすくんだ。


 振り返ると、ヒカルはあの左手を男に向けて突き出していた。


「ここからでもあんたの魂に手は届くんだよ」


 ヒカルの眼がギラリと光った。猟奇的な笑みを湛えて、開いていた左手をゆっくりと握る。

 烏帽子とは距離があるのに、まるで心の臓を鷲掴みにされたように、烏帽子は苦しそうな悲鳴を上げた。


「さあ、魂を握られた恐怖を味わうがいい!」


 歯を食いしばるヒカルの手の中に、太陽のような光が集まり始めた。

 烏帽子の体は緊張し、何かに支配されてゆくように自由を奪われ、立ってはいるがガクガクと震えて太刀を落とした。


 ヒカルの左手には、光がどんどん凝縮していた。

 輪廻の星空で見たものより力強く、眩しいくらいに大きく輝いている。


 今目にしている魂と輪廻の星空の魂の違いは、生身の体が生きているか否かである。生気というものが、魂に輝く力強さを与えているのではないかと思うほどの輝きであった。


 これが光司郎でいなければ耐えられなかった左手の力なのかと、直義はごくりと生唾を飲み込んだ。


 息もできなくなっている烏帽子は、いよいよぐるんと白目を剥いたが、片やヒカルは舌打ちをした。


「ここからじゃ吸いとれない。拡散させるだけになるか……!」


 しかしその声は庭まで届いていなかったようで、ヒカルの力は庭の刺客たちに充分に恐怖を植え付けていた。

 行灯の男たちの手は震えあがり、行灯も震えて光が強くなったり弱くなったりするので、それに照らしだされた自分たちの影もゆらゆらと踊って、壁から抜け出してきそうだった。


「この化け物め!」


 恐怖を一掃するように声を張り上げ、笠の男たちが向かってきた。

 一人は棒を構えて、もう一人は棒を捨てて抜刀した。


 直義はひらりと庭に下りて刀を弾き、間合いに踏み込んで斬り捨てた。血しぶきに背を向け、すぐにもう一人を追った。


 だがその男は、すでにヒカルに棒を振り上げていた。


「やめろ!」


 直義では間に合いそうになかった。


 しかし棒がヒカルに叩きつけられる直前で、ヒカルの左手がその男に向いた。


 烏帽子が左手から解放されて倒れ、代わりに笠の男が体を強張らせて棒を落とした。そしてまた、光が溢れる。


「ヒカル、そのまま耐えろ!」


 苦しそうに左手を掲げていた。

 がら空きになっている笠の男の背を斬り裂いてやると、ヒカルは左手を握りしめてぜいぜいと息を急いだ。


「大丈夫か!」


 真っ青な顔で唇が震えていたが、ヒカルは大きく頷いた。

 ともかく体に傷はなかったので、直義は安堵した。だがこんな状態では、もうヒカルは動けないだろう。

 咳は出てないことが救いだが、いつまで持つか知れない。早く安静に寝かせてやらねば。


 そんな直義の思いを裏切るように、刀を持った男が二人と、行灯を持った男がもう一人、庭に流れ込んできた。


 直義は刀をとって、ヒカルの前に立ちはだかった。

 すぐに飛び降りて斬り捨ててやろうと思っていたところで、庭に変な物が運ばれてきた。


 駕籠かごのように担がれてきたそれは、人ひとりが入れるだけの、格子の小さなおりだった。中から開かないように、大きなかんぬきがある。


 まさかあれにヒカルを入れるつもりなのかと、直義は怒りを覚えた。

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