八、光③
「もう少し」
しばらくすると、虫の声の代わりに、どこからかサラサラと水の音が聞こえてきた。
不思議な感覚だったが、遠くの方から近くへ、まるで川辺が近づいてきたようだった。
すると、真っ暗な世界の遠くの方で、ぽわりと小さな青い光が灯った。
ひとつではなく、次々と光は増えていく。幾千も幾万にもなり、暗闇はいつしか四方八方が満天の星空になっていた。
まるで夜空の中に落ちた心地だった。
そして次に現れたのは、大きな淡い黄色の光だった。手で包むには少し大きく、人の頭よりは小さいくらいの大きさだ。その光は、星空の中をのんびりと漂っている。
遠くにある光は星の瞬きのようで、近くにある光は大きな蛍のようだった。
いつの間にか、直義は光の満ちる蛍畑の夜空に浮かんでいた。
その世界は今までに見たどんな景色よりも美しく、幻想的であった。美しすぎて、知らぬ間にため息がもれていた。
「ここは、どこなんだ……」
「彼岸の手前、現世との境だよ」
すぐそばでヒカルの声が聞こえた。
ひとりで夜空に放り出されたのかと思っていたが、縁側に座っていた時と同じ姿勢で、ヒカルが隣にいた。そう言えば、右手はずっとヒカルの左手を握っている。
「ここは輪廻の星空。あの光は全て魂さ」
直義は星とヒカルを交互に見た。
「まさか、これもお前の力なのか?」
「この左手をもらってから、目を瞑れば好きな時に見えるようになった」
ヒカルの
直義は、その瞳がどんな光よりも一番美しく思えた。
「綺麗だろう。魂は蛍よりも力強く、星空よりも美しいんだ」
ヒカルはうっとりとその光を眺めている。
切なげに恍惚として見とれているその姿は、驚くほど清らかで、まるで俗世の汚れた衣を一糸も纏わぬ姿を見ているようだった。
「ああ、綺麗だ」
それはヒカルのことであったが、ヒカルは気付いていそうになかった。それほどこの世界に心奪われているのだ。だから同じ気持ちになりたいと強く願い、直義もこの光漂う世界を眺めた。
ため息が落ちるほど、無垢な壮美の世界。この世界こそが、人の世に上手くなじめないヒカルの、心休まる場所だったのだ。
この純粋な光たちはヒカルを歓迎してくれる。そら、ヒカルが手を差し出せば、光がひとつ寄ってきて、ふわりと手の上に乗ってみせた。
「逆髪だった魂は、この星空のどこかにいる。瑠璃と冴だった魂もここにいる。この魂の星空に漂って、いつしかまた現世に生まれてくるんだ」
そう言われると、一つひとつの輝きが、生まれる前の赤子のように見えてくる。
「また会えるといいな」
「あんたは会えるかもしれないね。いつかどこかで。仲のいい魂は、現世でも彼岸でも仲がいいみたいだから」
ヒカルは手の上で遊ばせていた光を、優しく空に返した。
「気づかないかもしれないけれど、きっと、あと何度でも会える。あんたは、ね」
「お前も会えるだろう」
ヒカルは首を振って、弱々しく身をすくめた。
「どうだか。黄泉の番人に喰われなきゃ、そうできるかもしれないけれどね」
「諦めているのか?」
眉をぴくりと動かして、下唇を噛んだのを見逃さなかった。
咄嗟に繋いでいる左手を引っ込めようとするので、直義はヒカルの手を強く握って引きとめた。
「逃げるな」
「偉そうに言わないでくれ」
「私も共に闘う!」
「黙れ! お前なんかに何ができるんだ!」
ヒカルの癇声が響いた瞬間、星空は一気に遠ざかり、気が付いたらそこは縁側に戻っていた。
鈴のような虫の声、差し込む夕陽。庭の山鳩が、慌てて飛び立った。
魂の夜空は嘘だったのではないかと思ったが、ヒカルは先ほどのままこちらを睨みつけていた。
笛の音が聞こえた。いや、違う。ヒカルの喉だ。
「人でもなく神でも物の怪でもないあの黒い靄と、どう闘おうって言うんだい。どうせこの弱った体は、抵抗できずに魂ごと喰われて消えるのさ。私が何もできなくなるほど弱るのを、あいつは
最後の方は空咳が混じっていたので、切れ切れだった。
「無理はするな。あとでゆっくり聞くから、今は呼吸を整えろ」
背をさすろうとした手を、ヒカルは払いのけた。
「秘密は教えた。あんたの好奇心は満たした。だからもう、私のそばにいる必要もないだろう。さっさとここから消えてくれ」
「そんな理由でここにいると思っていたのか!」
怯えるようにヒカルは目を伏せた。
直義は怒鳴ってしまったことを改め、声を落として問うた。
「私の心は伝わっていなかったか?」
ヒカルは口を一文字に閉ざし、身を引いた。
その距離を縮めるように、直義は少し前屈みになった。
「ヒカル、私の目を見ろ」
瞳が泳いで、それからゆっくりと、恐る恐るこちらを見上げた。
「私はお前を愛している。誰かに傾ける優しさとは違う、特別な心だ。光司郎に隠れていたお前の心を垣間見た時から、いや、きっともっと前から、私はお前に魅かれていた」
「そんな嘘は信じない」
ヒカルはかたくなに心を許さなかった。
「私の心はぐちゃぐちゃに歪んでしまった。そんなもののどこがいいって言うんだい」
「歪んでなどいない。お前はその真っ直ぐな心で、数多の魂を愛し慈しんできた。私はその姿に魅かれたんだ」
頬に伸ばそうとした手は、ヒカルの手に弾かれた。
「騙されない。そんなことを言って、本心では笑っているんだろう」
「私を信じろ!」
「信じるもんか!」
憎いものを見るような目で、ヒカルはこちらを見据えていた。
「いつだって人は裏切るんだ。私のそばで私を守るだって? 笑わせるな! 死ぬのはあんたじゃない、私だけだ!」
咳が暴れ始めた。ヒカルの華奢な体が大きく震え、細くなった喉では耐えられるかも定かでないくらいに咳き上げた。
「落ちつけ」
背をさするしかできなかった。ヒカルのような力なぞ宿っていない手を大きく広げ、自分の命を注ぐよう念じながらさすった。
結局念じることしか能がない自分が悔しかった。しかし、ヒカルの魂はどうにかして守ってやりたかった。
あの魂の星空を見せてもらってようやくわかった。
生と死の狭間に立つヒカルは、生と死が輪廻の流れに乗る夜空の岸辺で、たった独り、迫る死を見つめていたのだ。
ヒカルは、あの星空に還りたいと願っている。恋焦がれた魂の海の一部になりたいと、あの輝きそのものになりたいと。
慈愛を仇で返されたこの世を生きて、病に侵された体が朽ちたその果てに、ヒカルは希望を見出している。
しかし黒い手に脅かされては、星空に還る期待さえもない。
黄泉の国の番人に呑みこまれる最期を突きつけられ、靄の舌の上でもがき、ついにはもがくことさえも疲れて放棄しようとしている。
ヒカルは、一人の人間として弱い。それは当たり前のことだ。誰もがそうであるように、助けが必要なのだ。
片手間で習っていた薬師の知識を絞ったところで、ヒカルの体は自分よりも先に限界が来るだろう。
もちろん病を和らげる努力も惜しまないつもりだが、ヒカルが見出す人の本質たる魂を、ヒカルの生きた証となる輝きを、望む形で残してやりたい。
それを実現させる知恵はまだない。実体のない黒い靄とどのように闘えるかなんてわからない。
だからこそ、ヒカルはまだ死ねない。死んではならないのだ。
「ヒカル、お前は死んではいけない。私にお前を守らせてくれ」
咳もようやく治まったが、ぜいぜいと全身で呼吸をしていた。己の体を放り出すように、ヒカルは床に転がった。
仰向けで胸を大きく上下させながら空気を求めていた。苦しそうに、目の端に涙を溜めている。
呼吸の合間に、糸のようなか細い声を絞った。
「私だって、まだ死にたくない。死にたくないんだ……!」
何かを押し込めるように、両手で顔を覆った。
「なんで、どうして、こんなに苦しいんだ!」
胸を抑えて、ヒカルは横を向いて体を丸めた。
「ここでは体も冷える。せめて布団で寝ろ」
そう言っても、ヒカルは動こうとしなかった。不規則な呼吸に合わせて、こちらに向けた背まで震えていた。
「動けぬなら私が動かすぞ」
返事がないので、ヒカルの肩を引くと、力なくされるがままに仰向けになった。しかし手で覆ったままで、顔は見せてくれなかった。
直義は首と膝の下に手を入れると、そのまま持ちあげ、布団に寝かせてやった。
怖ろしいほど軽かった体は、あとどれだけもってくれるだろうか。
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