七、秘密①
夕暮れ前に、光司郎は目を覚ました。もう黒い靄も出なかったので、ぐっすり眠れたのか、大きな瞳を凛と開いて布団の上に身を起していた。
「どくだみと
凛としていてもつっけんどんな覇気はなくて、珍しく直義の言うままに茶を一口飲んだ。
飲みこむときに少し顔をしかめたので、茶が濃すぎたかと問うと、そんなことはないとそっけなく答えた。
「少しは落ち着いたか?」
すると、光司郎は苦笑した。
「あんたの前では調子が狂ってばかりだね。変なところばかりを見せてしまって、申し訳ないと思っているよ」
「気にするな。私は気にせぬ」
法師蝉の声が、沈黙を埋める。
光司郎はくすりと笑ってから、諦めたようなため息をついた。
「もうわかっているんだろう?」
「……何がだ?」
「私が女だってことさ」
あまりにあっさりと聞かれたのに驚いて、直義は「ああ」と反射的に頷いてしまった。
光司郎はあははと小さく笑って、たいして笑ってもいないのに目の端に溜まった涙を拭った。
「あんたには参ったよ。今まで私が築いてきたあらゆるものを、あんたは簡単に壊してくれる」
反論の余地はなく、直義は素直に謝った。
「すまない。そんなつもりはなかったのだが……」
何のためかは知らないが、光司郎があらゆるもので過去や素性を隠していたのには大切な理由があるはずだった。
その部分を知りたいと思っていたにしろ、勝手にひっぺがすのは光司郎を傷つけることになってしまう。
そうなってしまって本当に悪いと思っていたから謝ったが、どのように詫びていいのかもわからず、語尾は濁ってしまった。
それなのに光司郎は「あんたはずいぶんと変わったね」と笑ってくれた。
そして、何かがふっきれたような吐息と共にこう言った。
「さて、あんたはあの黒い靄の正体が何なのか知りたいと言っていたね」
驚くほど穏やかだったが、凛とした瞳はどこか悲しげに揺れていた。その瞳で覗かれると、今度こそ何も言えなくなってしまった。
「安心しなよ。あんたには一切害を与えないものさ。私に関わらなかったら、多分一生目にしなかっただろうね。この意味、わかるかい?」
しばし思考を巡らせて、それでも光司郎の言いたいことがわからなかったので、「いいや」と答えた。
「あんたが私の前から消えてしまえば、あの黒い手を見ることはなくなるよ。だからあの黒い手やそれに怯える私のことを気味が悪いと思っているのなら、さっさとこの屋敷から去ってしまえばいいのさ」
そんな風に言っているが、強がっているに決まっている。
直義は真剣に断言した。
「去るものか。私はここにいる」
そんな直義に、光司郎は不思議そうに目をぱちくりさせて、最後にくすりと笑った。
「おかしな人だね」
穏やかな光司郎は、赤紫というよりも白い牡丹のようだった。
人形のように無垢で繊細で、何にも汚れていない澄んだ心を見せる。まだ誰も触れていない穢れなき白い牡丹。自身の大きな花弁の重みに耐えて大輪を咲かせるその花は、誰にも渡したくはない。
直義のそんな想いに気付かぬ端整な横顔は、柔らかな日差しを求める花のように、少しばかり首を傾けて空を仰いでいた。
「それなら、昔話に付き合ってもらわなくてはね」
光司郎はずっと遠くの方を見ながら、そう言った。
直義は内心驚いていた。それと共に、早く知りたくてたまらないと胸が高鳴った。
だが、光司郎は物憂げな顔をしていた。だから、このはやる気持ちを押し殺して、自分は黙ることを決めた。
その口から語られるものが、何にも曲げられずに、光司郎自身の視点と言葉だけで紡がれるようにと。そうでなくては、思いは完全な形で汲み取れない。
「さっそく始めようか。少し長くなるけれど、私が人形師となる前の、まだ宮江光司郎ではなかった頃の話だよ」
光司郎の大きな秘密を前にしても、直義は怯まなかった。どんなことも受け止めようと決めていた。
法師蝉の声が少しおさまった。それを合図としたかのように、光司郎は静かに語り始めた。
◆ ◇ ◆
少女ヒカルがその力に気づいたのは、まだ十にもならない頃。偶然にも燕の雛を拾ったことがきっかけであった。
戸を開けたところに落ちていた雛は、もうとうに息も絶えている様子だった。まだ羽毛もしっかり生えていない軟肌の見える雛があまりに不憫で、両手でそっと拾い上げた。
するとどうだろうか。少しも動かなかった雛が、ひくひくと動きだし生き返ったのだ。
それに驚いて両親に見せたが、初めは信じてもらえなかった。
「最初から生きていたものを、お前が死んだと間違えただけなんだよ」
そう言われたが、ヒカルの心は曲がらなかった。
ヒカルは動く雛を母に押し付けた。ヒカルの手を離れた雛は、ほどなくして死んでしまった。
それでも半信半疑の両親を、今度は庭へ連れて行った。
そこには首を斬り、血抜きをしている鶏が下げられていた。
父親にせがんで抱きあげてもらい、鶏に両手を触れた。首なしの鶏はばたばたと数度羽ばたいてみせた。それでようやくヒカルの両親は信じるに至ったのだ。
その噂はすぐに村に広まった。そして歳も十を超えた頃、ヒカルは神童として村の神社の巫女とされた。
ヒカルの不思議な力を求め、多くの人が押し寄せた。
最も多く訪れたのは、今にも死にそうな病人を抱えた家の家族だった。ヒカルはその病人の家まで行き、瀕死の病人を幾度か延命させた。
ヒカルは自分の力について知り始めていた。
力とは、この両手を介して自分の魂を分け与えること。そして分け与えた自分の魂が、
たとえば、病の床で死の淵をさまよう病人がいるとする。
その病人の体から今にも離れそうな魂を体にとどめておくために、ヒカルの魂の一部を入れる。するとヒカルの魂の欠片は病人の体と魂を繋ぎとめる役割を果たす。
つまり、魂の離脱を少しばかり遅らせることができるのだ。
それだけでもヒカルはこの力を、不思議で強大なものだと思っていた。しかしそれは、ヒカル自身の思い込みでしかなかった。
人はある力を得ると、それを当たり前のように使い始め、そしてさらに便利で強力なものを求める。
延命には成功するが、虫の息で結局は死に至る不完全な力を、村人は責め始めたのだ。
自分の持てる力で人を助けようとしたヒカル。その善意と慈悲を踏みにじり、死の淵にいる病人の家族たちはヒカルの不完全さを罵倒した。
「病が治らねえんじゃ、意味がねえ!」
「あんたはこの子をもっと苦しませるつもりかい!」
「これで寿命を延ばしたと言うのか!」
「もっと魂を分けておくれよ!」
限界だった。ヒカルの分け与える魂は、ヒカル自身のものだった。与えすぎれば、自分が枯れる。自分の命の火を消してまで、人助けをするわけにはいかなかった。
そんなある夜、ヒカルは夢を見た。
重たい空気が頭上に膨らみ、あっという間に体は包み込まれてしまった。眠っていたのに、何故だか上から見ていたように理解できていたのだ。
目を開けると、どこか見知らぬ暗く深い穴に落ちてゆくところだった。いつまでたっても底の見えない巨大な穴が、ヒカルを呑み込んでいく。
ものすごい風圧を受けながら落下してゆくと、下から突然大きな黒いものが膨れ上がってきた。
黒いものは形があったりなかったりで、時たま巨大な人のようにも見えた。
その巨人と視線が合うところで、不意に落下は止まった。代わりに、どろどろとした空気がヒカルの周りを渦巻き始めた。
――可哀想に……。
色々なところから声が聞こえた。
――そのままだと、お前の魂がすべて持っていかれてしまうよ……。
その囁きは、深く怪しく心に響いた。
聞こえる声は一種類ではなく、たくさんの人の声が入り混じっていた。まさに老若男女の声色が響いているが、ヒカルには目の前の巨人の声だと理解できていた。
――可哀想に、可哀想に。半端な力を持ったばかりにね……。
慟哭が渦巻いた。それになびいて、自分も無性に悲しくなった。
――可哀想な人の子よ。お前に私の左手を与えようか。そうすれば、もっと完全な力を得ることができるんだよ。
「完全な力って何?」
――魂を、その手で操る力だよ。お前は自分の魂を分け与えてばかり。自分以外の他の魂をその手で操ることができたなら、お前はそんなに苦しまなくてもいいんだよ。
とても素晴らしいことのように思えた。死の淵にいる人を助けようとして、どうして責められるのかわからなかった。その理不尽さに泣いた日も数知れない。
もしもこの手で完璧に魂を操ることができたなら、誰もが喜んでくれるだろう。
ヒカルは、不気味な黒い巨人の正体など知りもしないで、言っていた。
「それならその力を私にちょうだい」
――もちろんだよ。でもただではないよ。交換だ。
「何と交換なの?」
――死んだ後のお前の体だよ。うまそうだ、うまそうだ……。
「それで魂を操る力を得ることができるのね?」
――私の左手をやるよ。魂をつかみ取ることのできる左手だ。
「死後の私の体など、死んだ私には関係ない。食べるなり何なり、お前の好きなようにおし。それでお前の左手をもらえるのなら安いものだわ」
――その答え、しかと聞いたよ。
不気味な笑い声が、幾重にも反響した。ぐにゃりぐにゃりと世界が歪む。
自分の頭の中までもねじり潰されそうで、耐えられずに気が遠くなった。遠くなってゆく意識の彼方で、ヒカルはこの言葉を聞き逃さなかった。
――だけど、お腹が空いて待っていられなくなったら、すまないね……。
笑い声がしつこく耳に残った。
目覚めて目に入ったのは、いつもの埃臭い天井だった。左手を見ても、何ら今までと変わらない自分の左手だ。
「夢?」
その手を胸に当てる。
唐突に、目の前にまばゆい輝きが現れた。
「――!」
気がつくと、そこに肩で息をする自分がいた。
何が起こったのかさっぱりわからなかったが、原因はすぐにわかった。この左手、だ。
呼吸を整えてから、もう一度胸に左手を置いてみる。
そうして見えたのは、温かい色の輝き。めいいっぱいに光を放つ、太陽のような大きな輝きだった。
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