六、霞と糸くず⑧

 光司郎はぐっすりと眠っていた。しかしどこか辛そうに、眉が寄せられている。


 その瞳を開けてくれないか。そしてあの凛とした眼差しで私を見てくれないか。そう願わないではいられなかった。

 病魔に蝕まれ散っていく前に、その前にどうしても、この心を伝えなければならない。

 逆髪が示し、冴が解放してくれたこの心を。


 光司郎のことは、まだ何も知らない。風に吹かれてほんの一瞬できた霞の隙間から見ただけだ。それでも想うには充分だった。

 しかし、満足はできなかった。もっともっと光司郎という女を知りたい。今まで好奇心だと片付けていた気持ちは、どんどん膨れ上がってゆく。


 光司郎は今までどのように生きてきたのだろうか。なぜこんな山の屋敷にこもって、ひたすら人形を作り続けていたのだろうか。

 ではそうなる前はどうだった? 人形ばかりに囲まれて、孤独に見える。一体いつからこの山で人を拒絶し続けてきたのだろうか。


 急に太陽が陰った。

 森の奥から、怖ろしく冷たい風が吹き込み始めた。何かが唸るような風鳴りは、首筋に鳥肌を立たせた。気味の悪い空気に、直義は思考を断ち、感覚を研ぎ澄ませた。

 まさか、太閤の使者がやってきたのだろうか。


 何かがこの離れをぐるぐるととり囲っている気配があった。

 庭を見ても誰もいないし、耳を澄ませても何も聞こえない。あんなに法師蝉がうるさかったのに、どこかへ行ってしまったように森は静まり返っていた。これは人の気配ではない。


 ぐるぐるとり囲む気配は、どろどろしたものに変わっていく。


 直義は、この気配はあの黒い靄の手のものだと確信した。

 いつの間にか吹きだしていた汗がぽたりと落ちる。意識を張り巡らせて刀に手を伸ばし、直義は腰を浮かせた。


 突然光司郎が短い悲鳴を上げた。


 振り返ると、やはりあの黒いもやが、眠っている光司郎を取り囲んでいた。

 靄からは蜘蛛の足のような細いものが何本も伸びて、手の形を作った。それらは寄り集まって一本の濃い黒の腕になると、呻く光司郎の口の中に入り込んでいった。


「やめろ!」


 直義は慌てて靄をかき消すように必死に手で払い、光司郎の体をかばった。

 すると、靄は名残惜しそうに蜘蛛のような手をゆらゆらと動かしながら、虚空にすうっと消えていった。


「一体何なんだ、あれは……」


 光司郎に出会ってから、あの黒い手を何度も見るようになった。物の怪というやつだろうか。瑠璃も逆髪も、あの靄に捕らわれそうになっていた。


 そう言えば、瑠璃の時に光司郎は黒い霞に向かって何か言っていた。光司郎はあの靄の正体を知っているのだろうか。


 下の光司郎が、苦しそうに呻いた。


「おい、無事か!」


 肩を少しゆすると、光司郎はうっすらと目を開けた。

 すると、目を見開いて体を震わせ、見る見るうちに恐怖に顔を崩した。


「来るな!」


 体を大きくびくつかせて、光司郎は直義から飛び退いた。


「私はまだ死なない! まだ生きてる! だから来るなっ!」


 目はうつろで、直義に焦点は合っていなかった。自分をあの靄の手だと勘違いしているのだろうか。


「目を覚ませ。私だ」


 ずりずりと座ったまま後ずさる光司郎に、直義はゆっくり近寄った。


「もう大丈夫だ。あの手は消えたぞ」


 そう言って手を伸ばすと、余計に光司郎は取り乱した。


「嫌だ! 嫌だ嫌だ! そんなのは嫌だっ!」


 そして暴れ出した。部屋のあらゆる物を投げつけて、どれだけ声をかけても正気に戻らない。仕方なく直義は力ずくで光司郎を抑え込んだ。


「もうあの黒い手はいない。大丈夫だ」


 どこにそんな力が残っていたのかと思うほど、強く抵抗した。両腕を封じても、今度は足をばたつかせる。

 大きな声で何か言っているようだが、咳の合間に言っているので聞き取れず、ついには咳ばかりで息もできなくなって、顔がどんどん白くなっていった。


 もう危険だ。そう判断して、直義は光司郎に覆いかぶさって抑えつけた。


「落ちつけ。案ずるな、私がここにいる」


 腕に力を込めて、光司郎の細い体を抱きしめた。暴れていた体は次第に力が抜け、ようやく脱力した。

 しかししばらくすると、ガチガチと歯を鳴らしてまた小刻みに震えだした。


「誰……?」


 怯えた声が、ぽつりとこぼれた。正気に戻ったのだろうか。


「私だ」


 腕を解いて、目を見て言った。


「もう大丈夫だ。あの黒い手は消えた。安心しろ」


 ぼうっと直義の顔を見ていた光司郎は、突然肩をびくりとさせると、慌てて直義から身を離した。


「どうした? まだ何か見えるか?」


 直義が問うても、光司郎は答えずにきょろきょろと辺りを見回していた。

 そして顔を赤くして悔しそうに唇を噛みしめると、何も言わないまま夜着を頭まで被った。


「まだ眠るか? 番はしているから安心しろ」


 声をかけても返事はなかった。じっと待っていると、しばらくして光司郎は顔を出した。


「私は、何か言ったかい……?」


 恐る恐るな問いかけに、直義は安心させるように微笑んだ。


「何かが嫌だと言っていたが、うなされることは誰しもあることだ。咳をしていたから苦しかったのだろう」


 悔しそうに目を細めて、光司郎は反対側に寝返って体を縮めた。


「笑えばいいさ。子供みたいに夢にうなされていたと、笑っていればいい」


 そう言って、もっと体を丸くした。


「馬鹿を言うな。誰が笑うものか」


 その声は、自分でも驚くほど、穏やかで柔らかな声だった。


 光司郎は直義の様子を窺うようにゆっくりこちらに振り返ると、何かを見定めようとするように直義をじっと見てきた。


「昨晩はあれのせいで眠れなかったのか?」


 直義の問いに、光司郎はおずおずと小さく頷いた。


「あの黒い靄は一体何だ? 瑠璃の時にも出てきたし、逆髪にとり憑いているところも見た。お前はあれの正体を知っているのだろう?」


 すると、光司郎は顔を青くして夜着の中で震えだした。

 まずいこと聞いてしまったかと、直義は己を嗜めた。


「すまなかった。今はいい。思い出すな。私はずっとここで見張っているから、しばらく眠れ。そうしないと、心も弱るばかりだ」


 そうしてそっと手を夜着の上に乗せると、いつの間にか夜着は光司郎の寝息に合わせて、ゆるやかに上下し始めた。

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