六、霞と糸くず⑦

 光司郎はしばらく蝉丸の消えた森を見つめていたが、戸にもたれながらよろよろと膝をついた。


「無理はするな」


 駆け寄って顔を覗くと、真っ青な顔で目の下のくまは濃くなっていた。


「眠れなかったのか?」


 答える代わりに、光司郎は無理に立ちあがって声を絞った。


「うるさいね。放っておいてくれ」


 そのまま母屋に引っ込もうと歩いた光司郎だったが、二、三歩のところで少し振り返って直義の顔をうかがうと、言いにくそうに呟いた。


「帰る気がないのなら、仕事の一つ二つはしてもらうよ」

「何をすればいい」


 促したが、光司郎は幾度かためらって、それでも最後にはぼそりと言った。

 それはとても不可解なものだった。


「夜は眠れなかったから、今からでも少し眠りたい。だから眠っている私を見張っていてほしい」

「お前を見張る? どういうことだ」


 訝しげに聞き返すと、またもや不思議な答えが返ってきた。


「私の体の番をしてもらいたいのさ。私の体がさらわれないよう、しっかりと見張っておいてくれよ」


 理由や意味をもっと深く教えてもらいたかったが、光司郎にそんな力はないようだった。今にも崩れてしまいそうな体を意志だけで動かしているのに、聞く気にはなれない。

 ともかく、不可解なそれをすることで眠れるならと、直義は見張り番を引き受けた。


 心の中の冴と瑠璃が、じっと無表情でこちらを見つめているようだった。


 二人はこんな自分をどう思うだろうと、最近は問い続けている。しかし問わずとも、よく思われていないことはわかっていた。理由をいくら重ねても、それはただの弁解にすぎない。


 冴、お前を忘れてしまったわけではないんだ。そう繰り返しても、心の中の冴は少しも笑ってくれなかった。


 蝉丸の代わりに、少しだけ護衛をするだけだ。そう言い聞かせて、母屋に置きっぱなしだった刀を取った。そして急いで庭を抜けて離れに着くと、光司郎はのろのろと布団の中に潜っていた。


「くれぐれも頼んだよ」


 閉じかけた目でそう言って、その後にはもう寝息が続いた。

 この様子だと、昨晩は本当に一睡もできていなかったようだ。病の体で不眠は厳しい。今は眠ることが最良の薬となるに違いない。


 直義は光司郎の眠りを妨げぬよう、部屋の隅に座り、刀を脇に置いた。それから、ふところからふみを取り出した。


 逆髪からの文だ。逆髪と蝉丸が光司郎へ渡しそびれ、自分に託したあるものが記されていると言う。読まねば逆髪もうかばれまいと思ったが、文を開く手が動かなくなってしまった。


 これを読むということは、二人が渡しそびれたものを、自分が光司郎に渡さねばならないということだろう。それは自分がするべきことなのかと、今一度自問したのだ。


 切腹を命じられる原因を作った罰として、やらねばならないだろうか。それはもっともな理由であるが、気の乗る理由ではなかった。そんな動機で向きあうのは、自分を責めなかった光司郎にとても無礼な気がするのだ。

 それに、護衛以上のことをすれば、どんどん冴と瑠璃に顔向けできなくなってしまう。


 蝉丸と逆髪の導くままに光司郎の縄張りに踏み込んでいけばいくほど、自分の真の心に迫ってく気がした。

 しかしその気持ちを解き放ってはだめだ。奥に沈めて、意識の深い底に隠してしまわないと。

 きっと一時の気の迷いにすぎないのだ。そうに違いない。だから蝉丸、逆髪。私に冴を傷つけさせないでくれ。


 冴、心配するな。私はお前しか愛していない。

 そう、きっと、お前を救おうとしてくれた、お前と同じくらいのおなごが病人であったから、助けてやろうと思っているだけだ。


 そう言い聞かせて、直義は再び文に目を落とした。


 文を読んだからと言って、何かしなければならないというわけではない。読んだ後に決めるのでも充分だ。自分ができる範囲のことならば、してやればいいだけのことだ。


 直義は深呼吸をした。文一通読むのに何故こんなに怯えているのか、頭の半分が笑っていた。


 文を開くと、流れるような美しい文字が並んでいた。

 そしてそれは、一見意味の取れないおかしな内容だった。


『心の中に咲く花はすみれ牡丹ぼたん


 菫のことばは瑠璃色に輝きました

 今一度己へ問いかけながら糸くずに手をかければ

 不思議とほどけ自由の身となりましょう


 どくだみの葉は土間に干しているのと

 隅にも束ねてあります

 どうぞ飲んでくださいまし』


 そして最後に『直義殿 逆髪』と結ばれていた。

 結局蝉丸や逆髪が渡しそびれたものの内容など書かれていなかった。


 しかし直義は、食い入るように文を何度も読み返した。するすると、この謎かけのような文の意味が取れてきたのだ。


 そして全てを理解して、直義は「そうだったのか」と、呟いた。

 いつの間にか、心の中の冴は瑠璃と共に笑っていた。


 冴の大好きだった菫が、野原一面に咲いている。萌黄もえぎの山が遠くにあり、白や黄色の蝶が飛んでいた。

 その野原で冴は瑠璃と手を繋いで、笑ってたたずんでいる。口癖だった言葉をいつものように言って、いっそう嬉しそうに笑うと、瑠璃と共に背を向けて、萌黄の山の方へ歩いて行った。


 そんな光景がとつぜん頭に湧きあがった。


 馬鹿みたいな白昼夢だ。そうだろう、と、どこかにいる冴に問うても、もう何も返ってこなかった。それでも優しい眼差しが包んでくれているようで、目頭が熱くなった。


 もう一度、文に目を落とした。逆髪の優しい文字は、冴と瑠璃の心を伝えてくれている。


 瑠璃色は瑠璃。そして、菫は冴だ。

 冴の思いは瑠璃の言葉としてよみがえっていた。逆髪は、そう言っている。『菫のことばは瑠璃色に輝きました』の意味はそういうことだろう。


 冴は全てに納得して死ぬことはできなかったのだ。何かを強く思いながら死んでいって、その思いは瑠璃の心に根付いていたのだろう。

 瑠璃がその強い思いを受け継いでいたというのは、きっと同じ魂を持っていたからだ。魂が何かとはわからないが、わからないからこそ、そういう考えもできるはずだ。

 だから、瑠璃は巡り会うべくして自分と出会ったのだ。京へ運ばれる道すがら、運命的にあのあばら家のそばを通り、瑠璃は箱の中で必死にもがいたに違いない。


 確かに光司郎の言う通り、瑠璃は冴と同じ魂でも、心も人格も冴とは全く別だった。しかし純粋無垢な瑠璃は、心に潜む冴の強い思いを無視せずにはいられなかったのだ。

 冴の思いの残り香である強い思いを、自分に与えられた使命とし、生まれて間もない心で、必死にそれを自分に伝える方法を考えていたと思うと、その健気さに切なくなる。


 瑠璃はあえて言えば無口な性格だった。最初は人形だからそうなのだと思っていたが、蝉丸と比べるとずいぶん無口だ。そんな瑠璃が紡いだ数少ない言葉の中に、よくよく考えれば冴の思いが紛れていたではないか。


 あばら家から逃れた小屋の中で、わらをとりに行くと言った自分に瑠璃はこう言った。


――東吉は菫もいらない。東吉が他の花を見つけるのが、瑠璃も菫も嬉しい。

 

 たどたどしい言葉で紡いだ、あの時は意味の取れなかった言葉は、きっと冴の思いだった。


――直義様、私のことは忘れて下さってかまいません。どうか私の他に愛し合える人を見つけて下さい。そうしていただくのが、私はとても嬉しいのです。


 そんな冴の優しげな囁きが、どこからか聞こえた気がした。

 自分に都合のいい解釈だとは思う。しかしこれ以外はなかった。


 冴は控えめな美しい心の持ち主だった。常に直義のことを優先し、直義がよしとすればそれでいいと笑顔で言ってくれる妻だった。


 妻が口癖のように言っていた言葉を、直義はこの文を読んでやっと思い出していた。


――人は愛し愛されるために生きるんです。直義様に出会えた私は、とても幸せなんですよ。でも愛のない人生は、とても不幸です。


 そうしていつも、こう付け加える。


――だから、いつも誰かを愛して下さいね。


 そう言っては、菫が風に揺れるように冴は笑っていた。その度に、私はお前を愛しているよと言うと、本当に嬉しそうに笑った。


 逆髪はものを喋らなかったが、その代わり人の心をさぐる不思議な力を持っているようだった。逆髪は全て知っていたのだ。死ぬ間際の冴の心と、冴の魂で生まれた瑠璃の心を。そして多分、この自分の心も。


 逆髪の道標みちしるべは、まだ続く。


 最初の問い。『心の中に咲く花は菫か牡丹か』は、まさに今自問しようとしているものだった。


 牡丹は、あばら家で咲いていた。赤紫の大輪の花を手折って、まっすぐにこちらを見る凛とした眼差し。女と知ってからその美しさに気付いて、心は締めつけられている。


 心に咲いているのは、菫か牡丹か。


 霞が晴れて糸くずがほどけて、そうしてやっと直視したのは、酷く単純で強い想いだった。

 蝉丸と逆髪が自分に託したものも、一体何であったのかようやく理解することができた。


 直義は文を折りたたむと、懐へ大切にしまった。

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