五、真実①
夏も盛りは過ぎた。しかし暑い日は続く。
青いがこうべを垂れ初めた稲穂が輝く田の脇に伸びる道を、
神の手を持つ人形師。それをたよりに宮江光司郎という人物の居場所を探るのは、危惧していたほど難しいものではなかった。
仄かな噂を寄せ集めれば、示す方向は自ずと定まってくる。直義が昔住んでいた村から数日も歩かないところに、あの人形師は潜んでいた。
夏風が遠くの稲穂の上を滑る。さらさらと流れる風は幾つものあぜ道を越え、山沿いの脇道に吹きこんだ。狭い脇道は足で踏み固められ、野花は道の両側に追いやられている。吹き抜けてきた風に身を揺らし、踏まないでと懇願しているのだろうか。
このような脇道に冴は倒れていた。ただし季節は身も凍る冬。目をつぶされて腹が裂かれたまま、吹雪の夜に野ざらしになっていた。
あまりに惨い仕打ちに、その姿を見たときには怒りが湧き上がった。しかしそれと同時に、自分を呪った。
一人で薬草摘みに出かけた妻を涼やかに見送っていた自分が愚かだったのだ。いくら守り袋をわたしていても、それはただの願掛けにすぎなかった。自分がこの手で守ってやらねばならなかったのに。
冴を失い、自分の道も失ってあばら屋に逃げ込んだのは、そのすぐ後だった。家も名も捨てて、自分自身をも捨てた気でいたのだ。
それも悪くないと思った。誰も自分を知る者はいなくなるし、妻を亡くした夫への気遣いも回避できる。
そうして冴の死を受け止めず、逃げて堕落していた自分を救ったのは瑠璃だった。何もなかった空間に会話を生み出し、本来の自分を取り戻しかけていた。
しかし瑠璃とは何だったのか。
人形師は、冴の魂はこの現世にとどまり、瑠璃に宿っていたと言う。それではいったい冴はどこに行き、瑠璃は誰だったのだろうか。
受け入れ始めていた冴の死が再び所在をなくし、もやもやと思考と心に
もしそれが瑠璃の中であったなら、瑠璃は冴であったのか。いや、瑠璃は瑠璃だった。冴とは全く違う、瑠璃という人格のようなものがそこにはあったはずだ。
それではあの世という考え自体が、生きた人間への都合のいい慰めにすぎなかったのか。
冴はどこにいき、瑠璃は誰だったのか。
二人は二人であったのか、それとも二人は一人であったのか。はたまた一人が二人であったのか。魂とは、一体何なのか。
果てない疑問が、足取りをゆるめた。これでは仇討などできまい。この疑問の解決は後にして、まずは宮江光司郎を討たねばならない。そうでなくては、冴と瑠璃を殺された怒りは鎮むまい。
冴がどこにいき、瑠璃が誰だったのかはわからないが、そういう疑問も共にしてこの胸の辛さや悔しさを生み出したあの男が憎かった。
幸せだった生活を消された痛みをあの男にぶつけねば、冴も瑠璃も浮かばれない。
直義は立ち止った。ふたたび心を決めて、山を仰いだ。
この道から分かれている山道の奥に、宮江光司郎の屋敷があると聞く。
笠を目深にかぶり、直義は山道に足を踏み入れた。
昼下がりの山道は、夏の盛りが過ぎたとは言え、汗をかくには充分だった。
一刻も登ると、太陽も次第に傾き西日が強い。夕暮れが差し迫っている。長く伸びた木々の影に助けられながら、直義は足を止めず一気に山を登った。そろそろ屋敷もみつかるはずだった。
うねる道を歩いてほどなくして見えたのは、ひっそりとたたずむ小さな屋敷だった。山に隠れるようにあり、奥には小さな蔵や離れも見える。
「ここか……」
止めていた足をふたたび進め、直義は腰の刀を意識して手前の母屋に向かった。
母屋を見る限り、そこそこの身分の武士よりも良い暮らしをしていることは一目瞭然である。このような贅沢を求めた家に住む、主の男が憎らしい。
突然、わざとらしく強い気配が背後に膨らんだ。
咄嗟に振り返ると、そこにいたのはあの忍装束の男だった。
確か蝉丸と呼ばれていた人形だ。頭巾の間からかすかに見える目は、
しかしそんなことに気を留めている場合ではない。直義は刀に手をかけた。
その直義の手もとを一瞥した蝉丸であったが、お構いなしに問うてきた。
「あなたは光司郎様の客人か? それとも――」
「私は客ではない。あの男に恨みがあってここまでやってきた。ここはあの男、宮江光司郎の屋敷だな」
今にも抜刀しようとする勢いで言ってやると、屋敷の方で物音がした。
「蝉丸。客人かい?」
聞き覚えのある声だ。
見ると、あの男が屋敷の中からこちらを見ていた。
「いいえ。
「そうかい。それじゃあ、後は任せたよ」
そう言って屋敷の奥へ引こうとする光司郎を、直義は笠を外して寸前で止めた。
「私は東直義。冴と瑠璃を覚えているか」
その言葉に光司郎は立ち止まり、考える仕草を見せた。それから笑って言う。
「ああ、あの人形を拾った変わり者か。あんたのことは覚えているよ。なるほど、私を殺してやろうって?」
「そのためにここまで来た」
眼光鋭く言い放ったが、光司郎はそれを難なく受け止め、まっすぐにこちらを見返してくる。
「それで、あんたは誰のために私を殺そうって考えているのかな? 瑠璃のためかい? 冴のためかい? それとも、自分のためかな?」
あの謎かけが、再び頭を巡る。
しかしここで怯んではどうにもならないので、直義は素直な答えを返した。
「二人のためだ」
「へえ……」
にたりと笑った後、光司郎はこちらから視線を少し外した。
「蝉丸、殺さないように加減しておくれよ。私をわざわざ殺しに来てくれたんだ。白湯くらいは出さないとね」
その悠長な構えぶりに腹が立ち、直義は刀の柄を握りしめて駆け出した。しかし目の前で蝉丸が塞ぐ。直義はためらわず抜刀した。
やはり蝉丸は、腕から伸びる両刃の剣で受け止めた。
「光司郎様には触れさせませぬ」
蝉丸が一旦退いて、その勢いからこちらに踏み込んでくる。直義は蝉丸の刃を弾き返した。
「私は宮江光司郎に恨みがある。関係のないものは殺したくはない!」
「それは綺麗事です。誰かを殺めるということは、その人を慕う者も傷つけるということ」
直義の一刀を、蝉丸は腕で受け止めた。鉄でも仕込んであるのだろうか。
直義はいったん退いて、蝉丸と距離をとった。人間でない者と戦うには、どうすればよいのだろうか。少し考える時間が必要だった。
「光司郎様に恨みがあると言われたが、それはあなた様の早とちり。どうか光司郎様をそっとしてさしあげてはくれませぬか」
「早とちりだと? 私から冴と瑠璃を奪った。その事実がどう間違っているというんだ!」
刀の柄を握り直した。それでも蝉丸は、無防備に両腕を下ろしたまま言ってくる。
「あなたは光司郎様を理解していない。あのお方は、命を奪うことを好ましく思ってはおられぬ」
まっすぐにこちらを見る蝉丸の目。しかし直義は、走り出していた。
刀を振り下ろす。それを両刃の仕込み刀でやはり受け止められた。その刃を、体をひねりながら真上にはじき、蝉丸の腕が上にそれた。
その刹那、無防備に出された蝉丸の肘を、直義は刀の柄の頭で思いきり砕いてやった。
蝉丸が気を取られているほんの一瞬で、直義は呼吸を整えた。そして地を蹴り、もう一度斬りこみにかかった。
だが、それは蝉丸のもう片方の腕によって制された。数歩下がり、少し間隔を取って、直義は構えのままで蝉丸をうかがった。
蝉丸は紐でぶら下がっている砕けた自分の腕に見向きもせず、隙を見せずに直義に向く。
「私の片腕を壊すとは、大変なことをしてくれましたね」
「人間ではこうはいかないが、陶器の人形ならば衝撃には弱い」
「なるほど。人形と暮らした日々は私の弱点を見つけるに充分だったようですね」
蝉丸は人形であるにもかかわらず、嘆息した仕草を見せた。何故かそれがとても怖ろしかった。
「しかし私は光司郎様に大変申し訳ないことをしてしまった。せっかくお作りいただいた体を、このようにしてしまって……」
悪寒がした。
人形独特の生き物ではないものの存在感が膨らむ。蝉丸の眼光が、鋭くなった気がした。
刹那、蝉丸がすぐ目の前まで迫ってきていた。
慌てて刀を握り直したが、唐突に蝉丸の上半身が目の前から消えた。突き出した刀は空を切り、一体何が起きたのか訳がわからなくなった。
動きを止めてしまった瞬間に隙をつかれた。今度は蝉丸の上半身がまた突然現れたのだ。
妙にはっきりとした思考で、直義は蝉丸の動きを理解した。
蝉丸は両足で立ったまま、人間には到底できぬくらいに後ろに曲がって直義の刃を避け、瞬時にもとに戻してきたのだ。
「衝撃には弱いですが、人形の関節は人間とは全く違う方向にも曲がるのですよ。思い出されましたか?」
そう言われてすぐ腹に衝撃が来たと思ったら、そのまま気が遠くなっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます