八、光⑥

 直義は小高い崖の上で足を止めた。崖の下に山道が通っている。向こう側から灯りが近づいてくる。間に合ったようだ。


 刀を両手で握り締め、直義は茂みに隠れた。そして崖の下を駕籠かきたちが通る直前に、直義は刃を下に向け、崖から飛び降りた。


 直義の体重がかかった刀は、前で行灯を持っていた男を串刺しにした。それを目の当たりにした者たちが、ワアと悲鳴を上げた。

 てんでばらばらに逃げようとして、駕籠かきたちは右往左往して、結局どの方向にも進めなかった。


 串刺しの刀を引き抜いて血が吹き出る。

 夜叉のように男たちを睨みつけた直義の眼に、半開きの檻の扉から垂れている白い手が飛び込んだ。


「ヒカル!」


 手はぴくりとも動かず、ぼんやりと行灯に照らされたヒカルの体も動く気配がなかった。


 頭が熱くなり、思考が燃え上がった。

 直義は声を張り上げ、ほとんど力任せに駕籠かきたちを刀で薙ぎ払い、骨まで引きちぎった。


 最後の一人の行灯の男も逃さなかった。逃げる男の背に刀を振り下ろした。首から背中にかけて引き裂いたが、その先は骨に引っかかって無理だった。喰い込む刀を力任せに引き抜くと、刃はがたがたになっていた。


 直義は使い物にならない刀を投げ捨て、転がっている檻に駆け寄った。


「ヒカル、生きているか!」


 格子の中から弱々しい呻き声が聞こえる。まだ息がある。


 扉を開けて引きずり出した。転げた行灯の紙に燃え移って炎上している赤い光でさえ、ヒカルの顔は蒼白だった。


「目を覚ませ、ヒカル! まだ死なないでくれ!」


 抱きかかえ、揺さぶった。体が冷えてきている。このまま冷え切って動かなくなるのではないかとよぎり、直義はヒカルの体を温めるように抱きしめ、体をさすった。


「直義」


 耳元で、小さな小さな声が聞こえた。腕の中を見ると、ヒカルがうっすらと目を開けていた。


「あんたはつくづくおかしなやつだね。こんな私に死なないでくれだなんて」

「死なせはしない。お前の魂は誰にも奪わせない。お前を守ると言っただろう」


 強がりの合間に見せる、あどけない清らかな顔。それが今、自分を捉えている。しかしそれは次第に、滲み出る涙でぼやけていった。


「どうしたんだい?」


 ヒカルの手が伸びて、ふらふらと宙を泳いだ。直義はすぐにその手を握りしめた。


「大丈夫だ、大丈夫だ!」


 ヒカルに言っているつもりなのに、いつの間にか自分に言い聞かせるように何度も繰り返した。

 ヒカルは目線だけを動かして、自分の腕から手、そして直義の手を見つめた。


「あんたはそうやっていつも私の左手に触れる。誰もが怖れて避けるのに、一度もためらわずに……」


 ヒカルは、今初めてその表情を知ったかのように、ゆっくり顔をくしゃと崩した。


「そんなに人の血を浴びて、真っ赤にぬれて、そうまでしてどうして私を守ってくれるの?」


 胸が苦しくなった。それが何故かは言ったつもりだったのに、ヒカルは愛という言葉だけを知っていて、それがどういうものなのかを知らなかったのか。


 左手をほどき、手をそっとヒカルの頬に当てた。それから小さな頭を撫でて、柔らかい髪に触れた。もう一度頬に触れると、直義は困惑するヒカルの唇に、そっと自分の唇を重ねた。


 短いようで長く、そして終わってしまえばやはり短い。顔を離すと名残惜しい。しかし愛しいヒカルの目を見つめられることも幸せだった。


「これが私の心だ」


 そう言ってやると、ヒカルはぼろぼろと大粒の涙を流した。

 朝露のような涙はとめどなく溢れ、声を上げることも嗚咽も叶わず、何度も短く息を吸うだけで精一杯のようだった。


 それでも一生懸命に言葉を紡いだ。


「やっと、わかった……」


 震える左手が、直義の頬に伸びた。


「やっとわかったのに……!」

「諦めるな! これからもずっと、一緒にいるんだ」


 頷きもせず首を横に振ることもせず、呼吸で体を震わせながら、ヒカルはにっこりと笑った。あのヒカルが、心から嬉しそうに笑ったのだ。


「こんな滅茶苦茶な人生……生きる意味なんてどこにもなかったはずなのに……!」


 声はどんどんかすれ、聞こえなくなっていった。上手く話せず、口だけが動いて、それでも必死に何かを言おうとしている。

 直義はどんなに小さな声も拾おうと、耳を傾けた。


「何だ? どうした、苦しいのか?」


 声がうまく出せなかった。切れ切れになってしまって、もう涙を堪えるので精いっぱいだった。


「ねえ、私も――」


 言いかけたところで、咳が言葉を奪った。乾いた絶え間ない強い咳に、その細い身体はばらばらに壊れてしまいそうだった。


「まだだ、まだだめだ!」


 直義は焦燥を頭から振り払うように、一層強くヒカルを抱きしめた。


 しかしその刹那、ひときわ大きな咳をしたかと思ったら、短い呻きと共に生ぬるいものが滴った。

 生温かいそれがじわりじわりと自分の着物に滲んでくるのを感じて、直義の手は震えた。


「ヒカル……?」


 固まった腕をぎこちなく広げてヒカルを見ると、呼吸はしているが、もう目も閉じてぐったりとしていた。

 一番目を引いたのは、やはり赤黒い液体であった。大量の血が、その小さな口からこぼれていたのだ。


 どろどろとした、特徴的な悪寒が辺りに這いまわっている。

 いつの間にか、直義とヒカルはたくさんの闇の右手に囲まれていた。


 何故こんな時に!


「奪われるものか!」


 ヒカルをかかえて逃げよう思ったが、闇の手は四方八方を塞いでいた。

 逃げようとしてあの黒い手の中に飛び込んでしまえば、それこそヒカルの魂が抜き取られる気がすると、もう逃げ道はなかった。


「消えろ!」


 自分が追い払うしかないと、直義は叫んだ。


「消えてくれ! もう現れるな! 現れないでくれ!」


 最後は懇願になっていた。ヒカルを生かしてくれるなら、どんなものにだってすがりついてみせる。

 それでも闇の右手は、直義の声になど怯まずに少しずつ距離を詰めてくる。


「どうしてヒカルなんだ! どうしてヒカルを選んだんだ!」


 なぜ一途なヒカルが不幸になる。人を助けたいという思いだけだったのに。


 不幸なまま死なせはしない。もっとたくさん嬉しいことや楽しいことを感じて生きなければならない。

 ヒカルはやっと愛に気付いた。だからきっと、今から幸せになれるはずなのだ。


 直義は黒い手を睨みつけて、刃こぼれの酷い刀を向けた。それをしてどうなるわけでもなかったが、抵抗の意志を見せつけないではいられなかった。


 すると、力がこもって筋や筋肉が浮き彫りになっている腕に、白く細い手がするりと伸びてきた。


「大丈夫だ。お前をこんなところで死なせはしない!」


 白い手は、直義の太い腕をつかんだ。そしてヒカルは、首をふった。もう力も入らなくて、手はすぐに落ちてしまった。


 直義は刀なぞ投げ捨てて、落ちたヒカルの手を握った。目を瞑ってしまって、ぐったりしている。慌てて名を呼んで、揺り動かした。


「生きているなら目を開けてくれ……!」


 それに応えるように、ヒカルはうすく目を開けた。大量の血を失って真っ青なのに、どこか晴れ晴れとした表情をしていた。

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