四、ある冬の誘い②
女の容態は、快方へは向かわなかった。
ようやっと二日も夜は乗り越えたが、この夜は越せぬ兆しが出始めた。高熱が下がらず、女は呼吸の隙間からひ弱な声を時折もらしている。
「苦しい……痛い……」
女は乱れる呼吸の間にそう言った。
見るに堪えない哀れさに、目をそむけたくもなる。
「光司郎様……」
後ろで蝉丸が静かに言ってきた。
「お前の言いたいことはわかっているよ」
光司郎は振り向かぬままそれだけ告げて、雪の深々と降る音に耳を傾けた。
しかしすぐに女の苦しげな声が静寂を破る。女の体は今まさに熱と痛みの嵐で壊れようとしていた。
光司郎はようやく腰を上げ、女の耳元にそっと告げた。
「今までよく頑張ったよ。あんたは強いね。でも残念だけれど、あんたの体はもう持ちそうにない。傷が汚い膿を持ってね、私にはどうしようもないんだよ」
女はすでに何かを言う余裕もなさそうに、必死に息を吸っては吐き出している。
「苦しいだろうに。私が生きる道を見せようとしてしまったから、余計に苦しくなってしまったね」
そっと女の手を取った。もう力も入りそうにない、痩せた細い手だった。
「苦しい……苦しい……。もう、嫌……」
幾重にもなった薄い涙の筋に、また涙が伝う。
「死にたいかい?」
そっと、光司郎は囁いた。
「その苦しみから逃れるために死にたいのなら、私は痛みもなくそうしてやれる」
女はもう何も言わなかった。ぐったりとして、ついに意識も失ったようだった。
光司郎は女の手を戻し、立った。
「光司郎様?」
「人形蔵に行ってくるよ」
光司郎は灯りを持って、屋敷を出た。
先ほどまで静かだった外は、乾いた冷たい風が粉雪を踊り狂わせながら唸っていた。屋敷の裏に茂った木々が身を擦り合わせ、まるで地獄から助けを求める怨霊の呻き声のようだった。
その森に飲みこまれそうなところに、昨晩から降り積もっていた雪に反射する月明かりで、蔵がぼんやりと浮かび上がっていた。
蔵は母屋や離れよりも頑丈に作られており、扉は閂で厳重に、中から開かないように閉じられていた。それは蔵という用途の建物にしては、とても不自然な造りだった。
光司郎は灯りを置いて、閂を開けた。次に重たい扉を開けると、何もかもを吸い込むような闇が広がっていた。
そこを灯りで照らすと、突然いくつもの目が一斉に開いた。白目が光り、不気味な陰影ができた顔がぼんやりと浮かび上がった。
目は全て人形の目であった。
作りかけの人形だ。まだ四肢がついていないものや、頭部しかないもの。着物を着ていないものや、まだ髪すらもないものが並べられている。
それらが一斉に光司郎を見たのだ。
だがそんな身の毛もよだつ光景にものともせず、光司郎は蔵の中で探し物をしていた。
「これか……」
取り上げたものは、例外的に目を開いていない人形だった。まだ魂が宿っていない人形の頭部である。
それは陶器でつくられた少女の顔で、今は閉じられているが、大きな青い目が特徴だった。
その人形の頭部をかかえ、光司郎は蔵を出た。
閂を閉じると、すぐに女の横たわる部屋に向かった。
「まだ息はあるかい?」
「ありますが、もう限界も近いようです」
灯り床に置き、人形の頭部は抱えたままで女のすぐそばに座った。
「名と出身地は聞き出してあるのかい?」
「逆髪が探りました。記録済みです」
「準備がいいね」
光司郎はひと呼吸ついてから、うっすらと怪しい笑みを含んだ。
「さあ、あんたを楽にしてやる準備は整った。あんたを苦しみから救う代わりに、魂をいただくよ。あんたの魂が健やかな人間の魂を守る糧になると思ってくれれば、私は救われるのだけどね」
そう自嘲して、光司郎は夜着の下に手を入れ、女の懐を探って胸の中央に左手を当てた。
右手は人形の頭部を抱えたまだ。
目を閉じて意識を沈めていくと、青くゆらゆらと輝くものが見えた。今にも体から離れそうな、不安定な女の魂だった。
「苦しかったろう。おいで、その苦しみから解放してやろう」
美しく輝く魂を、左手でそっとつかんだ。
急速に、左手を貫くようにそれは光司郎の中流れ込んでくる。そして渦を巻きながら、体の中を駆け巡った。
内側を荒らされる濁流に耐え、光司郎は気を紛らわすように苦しくとも笑った。
「さあさあ、一周したら出て行くんだよ」
居場所を探す魂にそう言い聞かせて、魂を右手に誘導した。
出口を見つけた魂は、一気に右手に流れた。そしてそれは、抱えている人形の頭部に注ぎ込まれた。
光司郎はその激流の中に、わずかな途切れをみつけた。
背後にのけ反るように倒れ、体ごと無理矢理女と人形から手を離す。
蝉丸に受け止められ、光司郎は荒れた息をなんとか整えた。汗がじっとりと額を濡らしていた。それをぬぐって、光司郎はやっと上体を起こした。
床に転がっている人形の頭を拾い上げる。
大きな瞳はぎょろりと開いて、光司郎をまじまじと見ていた。
青よりももっと深い瑠璃色だなと、光司郎は薄れた思考で呟いた。
「やあ、はじめまして。お前は一体誰なのかな? 私はお前を作った人形師だよ」
光司郎は自嘲するように、少し歪んだ笑みを見せた。
「私からお前に名は与えない。新しく愛でてもらえる人に名をもらいなよ」
そう言った直後、光司郎は意識を手放した。
◆ ◇ ◆
光司郎が目覚めたのは、翌日の昼下がりだった。
「お気づきになられましたか」
視線をやると、蝉丸がこちらを覗きこんでいた。
夜着をのけて体を起こすと、ぱたりと手元に何かが落ちてきた。それは固く絞られた手拭いだった。
「まさか、私は気を失っていたのかい?」
「はい。魂移しの後に」
ため息をついて、手拭いを蝉丸に渡した。
「体力が落ちたものだね。やはり生き物とは、時とともに失うものが多くあるようだ」
やってきた逆髪から水を受取り、一口飲む。その潤いは全身に染みわたるようだった。
生きている証を確認し、光司郎は自分でも驚くほど安堵していた。
「人形は?」
「人形蔵に納めておきました」
蝉丸がそつなく答えた。
不意に、光司郎は自分が真綿の布団の上にいることに気付いた。ここ数日、寝筵に横たわっていたことを思い出す。
「あの女の死体はどうしたんだい? 私の言いつけ通りにしてあるよね?」
「はい。拾った時の姿のままで、出身の村の道筋に置いてまいりました」
「それなら安心だ。愛されていたのなら、しっかり埋葬され弔ってもらえるだろうさ」
開け放たれた戸から、枯れた風が吹きこんでくる。
その風に、光司郎は呟いた。
「結局は、自己満足か……」
死者を弔うことに対してではなかった。生きている者に、苦しみからの解放と
もしも意識があったなら、あの時女は安楽な死と苦痛の生のどちらを選びとっただろうか。
話す力もなかった女に聞くすべはなかったし、今はもう何を思っても遅いのだが。
命の重さ。それは時に大きな喜びを人に与え、時に果てのない苦悩を招く。
何のための命か、誰の魂か。自分の視点や他人の視点で表情を変えるその実像は、掴みがたい。
魂を操る両腕を持った自分でさえ、何の理解もできぬまま、持った力に翻弄されている。
「光司郎様。忘れ形見です」
蝉丸が小さな守り袋を差し出した。昨夜光司郎が魂を抜き取った、あの女のものだった。
手のひらの小さな守り袋も無言を決め込んで、光司郎には何も語らない。
もしもこの守り袋があの女に贈られたものであったのなら、この守り袋を女に託した誰かは、きっと昨夜の自分の行いを酷く非難するだろう。恨まれても、仕方ない。
光司郎は小さく笑った。
「光司郎様?」
蝉丸が怪訝そうに言ってくる。
「なんでもないよ」
光司郎は守り袋を蝉丸に返し、布団から出た。
「さあ、逆髪。昼餉だ。それからすぐに、人形作りを始めるよ」
「お身体は? 今日くらい休まれてはいかがですか?」
「何を言うんだい」
慌てる蝉丸に振り向いて、言ってやる。
「私は人形師だよ。人形を作らないで、一体なんのためにここにいるんだい?」
そして光司郎は怪しい光のともった瞳で笑ってみせた。
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