三、ある晩秋の切望②
いつものように逆髪に屋敷をまかせ、蝉丸を供につけて、依頼主の男と共に山を下った。
男の村は、山を降りてから二刻半ほど細い街道を歩いたところにあった。
刈りとりを終えた田は秋風に吹かれていて、寂しい空気が漂っているように感じた。
「ここです」
男が戸を開けると、中にいた女が突然叫んだ。
「あんた、どうしよう!」
女の腕の中には、ぐったりした赤子が抱かれていた。それはもはや子猿の干物のように痩せ細り、一見した限りでは生きているようには見えないほどであった。
「もう息が……!」
男は血相を変えて飛んでいくと、息子の口元や鼻に指を近づけて呼吸を確かめた。
「ああ! もう死んじまう!」
男は頭を抱えて、膝を折った。
光司郎も急いで部屋に上がり込むと、赤子の顔に手をかざした。干からびた鼻の穴からは、かろうじてスウスウと細い風が行ったり来たりしている。
「このお方は……?」
女が不安げに夫に聞いた。うな垂れて頭を抱える男の代わりに、光司郎が答えてやった。
「あんたたちがずっと探していた人形師だよ。それより動かないでくれ。この子の魂を見させてもらうよ」
左手を赤子の胸にかざした。すっと目を閉じて、左手から感じる魂の輝きに意識を集中させた。
暗闇に、水面のようにゆらめき輝く、青のとても美しい魂だった。
しかし青いのは、体から離れようとしている色である。健全な者の魂は、もっと太陽のような温かい色をしているのだ。
「青はだめだ。この子の魂はもうすぐ体から離れてしまう」
目を開けて、光司郎は赤子の顔を見た。土のような色をして、苦しげな表情をしていた。
「早く! 早くなんとかしてくだせえ!」
「どうかお願いします!」
男の懇願と共に、女も赤子を抱えたまま膝を折って頭を下げた。
「顔を上げなさい」
光司郎は片膝をついて、すがりつく男に言った。
「この痩せ細った体か、今にも体から逃れようとしている魂。あんたはどちらが自分の子だと信じる?」
「どっちもだ!」
男は即答した。
「どっちも揃わなきゃ、息子じゃねえ!」
「では、どちらかが失われたら、あんたの子供ではなくなってしまうということかい?」
夫婦は言葉を失った。当たり前だろう。息子が死の縁にいる時に、このような問いかけは、混乱を招いて思考をかき乱すばかりだ。
光司郎は、できればこの夫婦の答えが欲しかった。これから行う行為を回避するために。
しかしこの夫婦には、すでに考える余裕などなかった。
魂も体も手放したくないという望みと、死を受け入れない心が望む結末が一体何を生みだすかは、光司郎にはだいたい予測できていた。淡い善意を抱いていたころ、似たような望みを叶えようとしたことがあったのだ。
あわよくば成功してほしいというのは安っぽい同情だ。今はもう、そんなものに流されはしない。
自分の本心は、この夫婦が現実に直面した時の顔を見たいだけなのだ。きっと。光司郎はそう自分に言い聞かせた。
「この子の魂がこの体に宿っていないといけないのなら、一度魂を私の手で取り出して、再び体に宿らせよう。その時に少し細工をするから、魂は体から剥がれにくくなるはずだ」
光司郎は目を細めて、「ありがたや」と頭を下げる夫婦を冷ややかに見下ろした。
「後で逆恨みをされるのも面倒だからもう一度言わせてもらうけれど、失敗するととんでもないことになるよ。それでもいいんだね?」
「放っておいたって死ぬしかねえんだ! 宮江様、頼みます!」
男は額を床にこすりつけた。
光司郎は男の言葉を聞いて、冷笑した。
「それじゃあ、お代は後でしっかりいただくよ」
光司郎は女の傍へ座った。女が抱いている、もう満足に目も開けない赤子の肌着をめくり、小さな胸にそっと左手を当てた。
強く目を瞑る。
青く美しい魂が見えた。それは青く燃え上がる篝火のようだった。
左手の感覚が自分の肉体の手を離れ、赤子の中に入ってゆく。感覚だけの手を奥へ奥へと伸ばし、力強くも脆い光にそっと触れた。それは温かかった。
「おいで。今楽にしてあげよう」
感覚の手で、青い輝きをすくいとった。もう体から抜け出ようとしているので、それは容易に掴み取ることができた。
すると、左手に包まれた光は大きく輝いたかと思うと、とたんに激流へと変わり、手を伝って光司郎の中にすさまじい勢いで流れ込んできた。
激流に意識が流されぬよう、光司郎は歯を食いしばった。
赤子の胸と光司郎の手の間からは、その青白い光が煌々と漏れていた。夫婦はその輝きに、目を剥いて見入っていた。
小さな体に宿っていた巨大な魂全てを吸い込むと、その勢いで光司郎は後ろに弾かれた。すかさず蝉丸が抱きとめる。
いつの間にか体は汗でぐっしょりと濡れ、息も急いで苦しかった。体はずんと重たい。自分と他人の二つの魂を抱えるのは、体に大きな負担がかかった。
赤子を見やると、安らかな顔で眠っていた。
光司郎は蝉丸に助けられながら起き上がり、今度は右手を赤子の胸に押し当てた。再び強く目をつむる。
「宿れ。お前の体だよ」
自分の中が、まるで嵐のように乱れるのを感じた。吸い取った魂が自らの所在を探し、暴れながら駆け巡った。そして出口を見つけた魂は、光司郎の右手を内側から貫くように飛び出した。
そして赤子の中に、激流となってみるみる流れこんでていった。
これからが一番難しいところだった。この激流に巻き込まれて自分の魂が持っていかれぬように注意せねば、己の体が抜け殻になってしまう。そうならないように加減を見極めるのが、自分を守る決定的な技であった。
そして今回の難しいところは、ごくわずかに自分の魂を加えなければならないところであった。一度肉体を離れた魂を強く繋ぎとめるために、自身の魂を
注がれる時にも、光は溢れた。しかしそれを見ることなく、光司郎は強く目を瞑って注がれる魂の量に集中した。
そして一瞬、ほんのわずかの途切れを感じた。その途切れの後に自分の魂が続いてゆくのを感じた刹那、光司郎は体を弾いて後ろに倒れ、その勢いで赤子から手を離した。
光司郎は受け止めてくれた蝉丸の腕の中で、自分の魂が全て持って行かれなかった安堵に浸りつつ、肩で呼吸を整えた。
「光司郎様、大丈夫ですか」
ゆっくりと上体を起こして蝉丸の腕を押しやった。
「いつものことさ。大丈夫……」
自分の魂を分け与えたのは数年ぶりであったが、魂を操るには大抵これほどの労力を使うので、そう言って蝉丸にはごまかしておいた。
だが、胸の奥がごっそり抜き取られたような、不快な喪失感がざわざわと体を内側からかきむしった。
額のべっとりとした汗をぬぐい、大きく深呼吸をした。すると、突然女が声を上げた。
「目が! 目が開いた!」
夫婦は光司郎に見向きもせず、腕の中の赤子に目を凝らした。
「おい、わかるか? おとっつぁんだぞ!」
赤子はうっすらと目をあけ、口を小さく動かした。
「おっかさんだよ! ねえ、聞こえるのかい?」
赤子は数回瞬きをしたが、まだまどろみから醒めていないようで、すやすやと細い寝息を立て始めた。
「あんた、生きてるよ! ちゃんと息してるよ!」
女は歓声を上げると、大切そうに我が子を抱きしめた。男は目に涙を浮かべ、赤子のだらりとした手を握った。
「あったかいなあ。あったかい。死なんでよかったなあ」
男は潤んだ目で光司郎を見ると、何度も礼を言いながら額を床にこすりつけた。
「どうやら、魂は定着したようだね」
光司郎は赤子の息が戻ったことを確認すると安堵したが、よくよく見ていると様子がおかしいことに気がついた。
赤子の口がぽっかり開いて、舌がでろんと飛び出したのだ。時々白目にもなり、それでもアウアウと声を出していたが、それは赤子にしては妙に低い声で、まるで生気がなかった。
ああやっぱりそうなってしまうのかと、光司郎の胸の裏はずんと痛んだ。
光司郎は重い身体を無理矢理奮い立たせて、やっとの思いで立ち上がった。
「今回のお代は特別安くしておいてあげるよ。銭三貫文ほどでどうだい? 銭が無理なら米でもいい」
「さ、三貫!」
夫婦は一転して真っ青になった。目玉がこぼれおちそうなほど目を見開き、口をあんぐりさせている。
そんな夫婦を嘲笑って光司郎は言い放った。
「私は御屋形様のお抱え人形師だよ。私の仕事に、あんたらの想像以上の金が動いているんだ。それを知っていて私に頼んだんだろう? それに、あんたたちは命を買ったんだ。それ相応の代金がかかるのは目に見えていただろうに」
夫婦は何も言えないで、口をぱくぱくさせた。油汗が噴き出るのが、端から見ていてわかるほどだ。
「命をたった三貫で買えたんだ。安い買い物じゃないか。後日受け取りにくるから、用意しておきなよ。そうだね……、逃げられるといけないから、これを借りておくよ」
光司郎が指差したものを、蝉丸はひょいと担ぐ。
「それは! ぜ、全部はやめてくれ! まともな食い物はそれだけしかねえんだ!」
男は蝉丸の担ぐ米俵に飛びつこうとするが、蝉丸は難なく避けた。
「人は水で数日生き延びることができると聞く。水で生きていられる間に、他人にすがるなりしてどうにかすればいいさ」
光司郎は男の抗議など聞き流し、粗末な戸を開けた。
しかしふと思い立って、去り際にもう一度男に振り返った。
「もし三貫そろわなかったら、魂ひとつで見逃してあげるから安心しなよ」
立ちすくむ放心状態の夫婦に妖しい笑みを残して、光司郎は立ち去った。
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