五、真実④

「おい!」


 直義は、今まさに光司郎をどこかへ運ぼうとしている蝉丸を呼びとめた。


「どうするつもりだ! お前たち、わかっているのか!」

「部屋におつれします。逆髪が冷えた手拭いを用意するでしょう。最近お加減がすぐれないのでいつもこうして――」

「この縄を今すぐに解け! ただの咳ではないぞ!」


 助けるつもりなのかと、もう一人の自分が問う。放っておいてもいいはずだ。しかしここで死なせてはならないと強く思った。

 何故だろう。そうだ、多分、真相を本人から聞かなければ気が済まないからだ。


 言葉を遮ってまで叫んだ直義の権幕に、ようやく蝉丸が事態を飲み込んだ。


 人形は所詮粘土の体だ。人形の蝉丸と逆髪には、生身の人間である光司郎の体の異変に気付けなかったのだ。


「しばしお待ちを」


 蝉丸は抱えた光司郎を奥へ運び、それからすぐに戻ってきた。柱に直義を縛り付けていた縄を解く。


「咳はいつからだ?」

「昨年の晩秋あたりからです」


 蝉丸の先導に、早足でついてゆく。


「血を吐いているところは見たか?」

「いいえ、そのようなことは一度も……」

「薬は?」

「咳の出始めた三月みつきほどは飲まれていたようですが、最近はそのご様子もありませんでした」


 母屋を出て裏に出ると、闇に紛れるように質素な離れが建っていた。

 母屋と離れの間は広々としており、脇にはざわざわと植物が茂っている。

 その中庭を抜け、戸口には回らずに、中庭に面した縁側から上がった。


 蝉丸が立ち止まる。


「こちらです」


 通されたところは、巻物や奇妙な本が山積みになった部屋だった。文机もあり、そこに巻物や本が積み上がっていた。

 床にも書物や箱、布や裁縫道具が散らばっており、この雑然とした部屋の中央が、光司郎の寝どこになっていた。高価な真綿の布団に寝かされ、夜着がかけられている。


 物で狭くなった部屋に上がり、直義は光司郎の枕もとに座った。

 灯りで血色を見るとすこぶる悪く、息も辛いようで時折乾いた咳をしている。

 首筋に手を当ててみたが、ひんやりとしていた。


「熱はないな」


 蝉丸と後からついて来た逆髪は、心配そうにこちらをうかがっている。

 直義は蝉丸に訊ねた。


くれのはじかみはあるか?」

「呉のはじかみ……生姜ですね。探してまいります」


 すぐに部屋を出ようとする蝉丸を、直義は寸前で呼びとめた。


「ぬるま湯で煎じて持ってきてくれ。あれは喉の薬になる」

「わかりました。すぐに持ってまいります」


 今度こそ部屋を出た蝉丸とその後をついていった逆髪を確認してから、直義は光司郎の部屋を探った。文机や小さな引出の中もくまなく探す。

 そしてそれは、やはり見つかった。


 文机の奥に押しやられた木彫りの小箱の中に、紙に包まれた丸薬が入っていた。

 それは手に入れるには難しい、良質の咳の薬だった。

 自分のような一介の武士では手に入れられないが、真綿の布団に寝ている者ならばと探してみて正解だった。

 しかしせっかくあるというのに、最近飲んでいる形跡がない。


「気づいていたのか」


 肺の病は何種類かに分別された。

 一つは人に移るが治る咳。そして人に移る死に至る咳。最後の一つは、人には移らないが死に至る咳。

 小箱の薬は前者二つのものであったが、それで治らぬと気づいて、飲むのをやめていたのだろう。


 人にも移さぬ不治の咳は、熱が出ない。その特徴を知っていれば気づくのは簡単だ。

 この部屋の書物の多さから、光司郎はかなり博識と見える。直義の持つ知識くらいは持っていそうだ。


 乾いた咳がケンケンと聞こえる。咳の合間に必死に息を吸い込む男を見て、どうしてこんなことをしているのかと我に返った。

 冴と瑠璃の仇だと言うのに、手当をしようなど馬鹿馬鹿しい。今ここで首を絞めてやれば、この男は簡単に死ぬだろう。


 ドクドクと鼓動が急き立てる。直義は息を呑み、手を伸ばした。

 こんな細い首、へし折るのも容易いだろう。しかしどういうわけか、途中でためらわれた。

 こめかみから、汗が一筋流れ落ちる。


 まさか、蝉丸の話を自分は鵜呑みにしようとしているのだろうかと、直義は自問した。

 しかし蝉丸の言い分全てを否定するのは、やはり難しかった。

 光司郎の少なからずの慈悲を考慮しないで、どうして冴の亡骸が村に戻ってきた辻褄を合わせればいいのか。


 だが直義は、冴をあの道端で殺したのなら話は繋がると気付いた。蝉丸の話を全て否定すればどうとでもなるのだ。

 そうだ、やはり冴をこの屋敷に連れ込み、目を奪って体を弄んだのだ。

 しかしそう考えると、なぜわざわざ雪道に亡骸があったのか疑問は残る。

 もしかして、本当に蝉丸の言うことが正しいのだろうか。


 そんなことを堂々巡りに考えていると、ついに光司郎の首を絞める前に蝉丸が戻ってきてしまった。


「呉のはじかみの煎じ湯です」


 わからないならば、本人の口から聞きだせばいい。殺すのはそれからでも遅くない。

 この恨みと冴の悲しみをじっくりと味わえるよう、もっと苦しむ殺し方で。


 蝉丸から煎じ湯を受け取り、少し光司郎の体を起こして口に注いでやった。しかしむせて咳きこみ、飲める状態ではなかった。


 咳が治まるのを待ってから、逆髪が持ってきていた冷やした手拭いを借り、煎じ湯に浸した。

 むせているのに、目を開けることはなかった。笛の音のような呼吸でうまく息ができなくて、気が遠くなっているようだ。


 煎じ湯に浸した手拭いを絞り、胸に直接湿布してやろうと、直義は光司郎の胸元をはだけさせた。

 蝉丸の制止する声が聞こえたが、それは少しばかり遅かった。


 胸元を見て、まるで頭を強く打たれたようだった。

 ありえない。だってこの男は、冴の体が目当てだったはずだ。

 しかしその思考とは裏腹に、空気を求めて激しく上下する胸には、白いふっくらとした小山と谷間があったのだ。


 直義はまじまじと見てしまっていたことにはっと気付いて、慌ててどこかへ飛んでいた思考を呼び戻すと、手拭いを貼り付けて手早く襟を戻した。


「湿布でも効果はあると聞く」


 そう言うだけで精一杯だった。礼を言う蝉丸の声は、頭を素通りしていった。


 思い当たる部分はなかったわけでもなかった。

 小柄な背丈に、華奢な体つき。男と見ていた時には童顔の少年のようだと感じていたが、大きな目や薄く引き締まった唇は、凛々しい女の艶やかさがある。

 身なりは男の着物で、もちろん男の袴もはいていた。それでも中性的と思わせるのは、やはりこの女の本質が混じっていたからなのだ。


「女だったのか……」


 ぽつりと呟いた自分の声で、蝉丸と逆髪が身を縮めたのがわかった。


 今や蝉丸の話を信じる他ないように思えてきた。この女が冴の目を潰す理由や腹を裂いて殺す理由は思いつかない。


 怒りの矛先が定まらなくなってしまった。

 もちろん、冴を苦しめ傷つけたであろう山賊やら追剥やらに恨みは尽きない。しかしそれらは漠然としすぎた対象だ。

 これまで宮江光司郎という個人を恨んできたが、その恨みは一気に抽象的なものへと拡散してしまった。恨むべき人物が定まらなくては、この世を恨むしかない。


 しかしそこまで極端に世を恨むような卑屈な考え方に支配されたくはなかった。

 なぜだろう。多分、少なくとも冴と共に生きている間は、この世が美しく見えていたからだ。今はよくわからないが。


「直義殿」


 蝉丸がおずおずと切り出した。


「直義殿は医術を心得てらっしゃるのですか?」

「いいや。私の母方の祖父が薬師だった。私は母から少し習っただけだ」


 驚くほど覇気の消えた声だった。一気に熱の冷めた頭は、大いに混乱気味だ。

 蝉丸と逆髪は顔を見合わせると、頷き合って、同じ動作で頭を垂れた。


「直義殿。これまでの無礼、深くお詫び申し上げます。どうか光司郎様をお助け下さい」


 冷えた思考は、残酷なほど正直だった。


「無理だ。これは治すことのできぬ病だ」


 蝉丸は、すうと顔を上げた。

 こちらを見るでもなく、虚空を見やったまま固まって、しばらくしてからああと肩を落とした。


「すまぬな」


 何の感情もこもっていない、形ばかりの言葉しか出なかった。

 無言だった蝉丸は、しばらくして自分を奮い立たせるかのように姿勢を正し、直義の顔を直視した。


「直義殿に、お願いがございます。これほど無礼を働いておきながら、身勝手なこととは思います」


 そう断ってから、蝉丸は再び額を床につけた。


「どうかここに留まり、光司郎様のおそばにいて差し上げてください」


 混乱していた頭が少し醒めた。

 突拍子もないことを言い出すので言葉を失っていると、蝉丸はさらに続けた。


「光司郎様を憎まれていることを承知の上でのお願いです。ただ、光司郎様が本当に直義殿の憎むべき人物であるのか、今一度見極めていただきたい。見極めて答えを出すまでの間だけでも結構です。どうかしばらくここに留まっていただけないでしょうか」

「私にはこの病は治せぬと言っている」

「それは承知しております」


 間髪入れずに頷く蝉丸の真意がわからなかった。


「お前は私に何をさせたい?」


 見えない作意に苛立ち、乱暴に睨みつけてしまった。それでも蝉丸は頭を下げていた。


「光司郎様が人にこれほど興味を示されたのは、私の知り得る限りでは直義殿が初めてなのです。だからどうか、直義殿には光司郎様のおそばにいていただきたい」


 思いつめたように言葉を飲んで、蝉丸はうつむきがちに頭を上げた。


「私にはもう時間がありません」


 蝉丸は、小さな風に大きく揺らめく灯りに視線を落とした。玉の目に、その炎が揺れる。


「人形にも寿命がございます。瑠璃殿も寿命で逝かれました。我々の寿命も長短さまざまで、魂を宿す光司郎様にもその長さは知りえませんし、もちろん操ることもできません。ただ人間よりはひどく短く、長くても五年もてば良い方だと光司郎様はおっしゃいます。意図的に生かされた人形も、遅かれ早かれいずれは死にゆくのです。そして私と逆髪は、多分もうそろそろ死にます」


 蝉丸は静かに顔を上げた。


「なぜでしょう。我々のような人形にはどうやら死期がわかるようです。瑠璃殿も死に際にあなたに形見を渡し、瑠璃殿なりにあなたに別れを告げてから逝かれました。それは死期を悟ったからできた行為でありましょう。それと同じように、私も逆髪も死期がもう近いと感じています。だから私は、私が死ぬまでに光司郎様を直義殿に託したいのです」


 勝手な話だ。

 しかし放っておくのも気まずかった。この女は冴を救おうとしてくれていたのかもしれないのだ。ならば、それ相応の礼を言っておきたい。

 しかし今まで仇と見てきたし、あの憎々しい態度なものだから、気が進まなかった。


 無慈悲な言動をするかと思えば、慈悲とも受け取れるような行動が語られる。この女は一体何をしてきたのだろうか。


 そこに横たわる女の顔。蒼白で、唇も青い。眉間にしわがより、小刻みに繰り返す呼吸は頼りない。

 女と見れば、歳は冴とあまり変らないように見える。


 このように冴も苦しんでいたのだろうか。

 その時そばにいられなかった自分の代わりに、魂を操ることのできるこの女は、一体どのような気持ちで冴を見ていたのだろうか。


 冴の魂を操った女がそこにいる。しかしその女の実像は、まるで霞のように形を成していなかった。


「見極める、か」


 冴を救おうとした行動と魂を奪った事実、それらの両極端の狭間にある光司郎の心は、何を求めているのだろうか。


 それを知ったところで何がしたいのかと考えても、正直よくわからなかった。自分の心もまた霞がかかっているようで、理由が見えなくなってしまっていた。


 ただ、この不思議な女の真の心を知りたいという好奇心が、霞の奥から湧きあがってくるのだということは、ぼんやりと自覚できていた。

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