4-(4)
「あれ、佳祐は?」
ゴムボートを抱えて拓己さんが表れた。
「どこかに行っちゃって」
「気分はどう? あ、これ? また嵐が来て流されたら嫌だからさ、目の届くところに置いておくことにした」
はあ、とわたしは相槌を打った。
拓己さんはボートを近くの柱に立てかけ、ベッドのへりに座った。真新しいベッドは小さく軋んだ。
「いまはどんな?」
「体が海の上を漂ってるみたいな」
「立派な船酔いだな。水の中ばかり眺めてたからだよ」
そういうものなのか、と反省する。
わたしたちの声以外はなにも聞こえない。声は静寂に吸い込まれて反響することもない。
「『閉鎖的状況』って言ったでしょ? あそこのことだよ、学校。あんなところに文句も言わないでじっとしてたなんて、つくづく名璃子ちゃんは」
「生きていることが大切なのかと」
「それはそうだけど心が死んじゃうよ」
拓己さんの言うことは難しい。
わたしは頭の中身を総動員させなくちゃならなくなる。
心が死ぬ? 体より先に?
体が死ぬ時に心も死ぬのかと――。
「ちょっと天気次第で長引きそうだけど、ここにいる間は安心して少し気を抜きなさい。『囚われのお姫様』、ここはリゾート地だと思えばいい」
拓己さんの瞳をじっと見ると、彼は眩しそうな目をして笑い、立ち上がった。
「ほら、君の騎士が走ってきたよ。なにしてきたんだか」
佳祐はいろんなものをごちゃごちゃ持ってきた。間違ってなかったものもあったし、それはいまはいらないんじゃないかな、と思うものもあった。
「お前さぁ、自分の時、どうだったのか覚えてるだろ? ついこの前じゃん」
「いや、あの時はなんにもわかんなかったから覚えてなくて」
「しょーがねぇなぁ」
ため息をついて拓己さんがエスカレーターの方に歩き出した。
「このままじゃ、俺、将来、お前たちのせいで看護士一直線だな」
襲うなよ、と佳祐に念を押して拓己さんは上に行ってしまった。
「……さっきのも襲ったうちに入るよな?」
「どうかな」
胸の鼓動が大きくて、口から出てくるんじゃないかとドキドキする。しずまれ……と念じたところで、原因が目の前にあるので効果はない。
「具合、よくなった? パジャマ持ってきたけど着替える?」
「パジャマ探してたの?」
「他にも持ってきたけどさ、どんなのが好みなのかわかんなくてオレの趣味で選んじゃった。気に入るかな?」
「うん、気持ちよさそうなパジャマだよ。確かに病人だから着替えようかな?」
佳祐はパジャマだけでも三着持ってきた。
背の高い家具の裏に回って、着てきたジャージを脱ぐ。靴下も脱いで、足の指をグッパする。緊張が解れる。
「このパジャマ、無印のでしょ? 無印、このフロアだよね?」
「ああうん、すぐそこ」
「スリッパ欲しいかも。ルームシューズでもいいよ。サイズはMで」
「わかった。すぐ持ってくる」
慌ただしく佳祐は行ってしまった。
よかった。
無印があれば大抵の衣料品が手に入る。
ショールームってちょっと怖い印象があったけど、ベッドはふかふかだし、逆に静けさが心地いい。
ああ、確かにこんなに自由を感じたのはいつ以来だろう?
「名璃子ちゃん、お待たせ。パジャマかわいいね。この後、体、お湯で拭けるところに連れて行ってあげるからその時に自分で好きな下着選んでいくといいよ。佳祐はどうせインナーまで気が回らないでしょう? それからとりあえず紅茶ね。ダージリンにしておいた。名璃子ちゃんのイメージ」
ありがとうございます、と言ってカップを受け取る。金色に細く縁どられた華奢なカップにそっと口を付ける。
拓己さんの中ではわたしはダージリン? どういう意味だろう?
「ダージリン? その香りの高さは紅茶のシャンパン。名璃子ちゃんにピッタリだと思って。上品で、それでいて色は薄く、主張はしない」
拓己さーん、と佳祐は戻ってきた。
しょーがねぇなぁと拓己さんは言って、もう一度無印に旅立って行った。
ふわふわ水上を漂ってるような気分が抜けないので、横になって丸くなる。
少しはマシ。
ああ、どこかに流されちゃいそう。どこへ?
わたしはどこにも行きたくない。ここにいたい。
いまとなっては、佳祐と二度と離れたくない。
『鏡』。
湖西との約束。
少し気分が良くなったらホームに行かないといけない。到着したことを知らせないと。
本当に? 突然、胸の中に疑問が渦を巻く。
絶対あそこに帰らなくちゃいけない?
あそこに比べたらここはパラダイスだ。ライフラインもしっかりしていて、欲しいものが手に入る。拓己さんも佳祐もいる。
ああ、パパを置いてきちゃった。パパには一緒にママに会ってほしい。会って、家族でいてよかったって思いたい。
綾乃もいる。
あんなことがあっても友だちだ。結果的に綾乃を裏切っちゃったけど、女同士じゃなくちゃいけないこともいっばいある。
やっぱりわたしの心はあの孤島に縛られている。帰らないわけにはいかない。
「名璃子ちゃん、少し落ち着いた?」
「はい」
拓己さんは四階のレストラン街に連れて行ってくれた。あるお店のシンクに洗面器が置いてあって、蛇口をひねると温水が出た。
わたしは洗面器にお湯を張って、少し足より小さい洗面器で『足湯』をした。じんじん、しあわせが体中に広がる。
厨房は床に側溝があって、水を流せるようになっていた。蛇口から温水を汲んでしゃがんだ体勢で肩からお湯をかける。確かにここにいる間は、学校のことを忘れてしまいそう。
人並みの生活。
もしかしたら世界にはわたしたち六人しか本当にいないのかもしれない。それでも、少しくらいは夢を見てもいいんじゃないかとそう思った。
夕食は拓己さんが『最も眺望のいい』レストランの窓際に座らせてくれた。
眺望と言ってもなにもない。果てしなく続く水と空だけだ。知らないうちに霧雨は止んで、星々が空を彩っていた。
照明は薄暗く、それぞれのテーブルにはアンティークなランプがひとつずつ。
そこに拓己さんが「こちらが今日のメインディッシュです」なんて言いながら無印のレトルトを持ってくるから笑ってしまう。
スープにメインディッシュにデザート。食後のコーヒー。
以前は当たり前にあったものなのにこんなにありがたい。気を利かせてくれてふたり用のテーブル席の向かいには佳祐が座っていた。
もしかすると、これが初めてのデートになるのかもしれない。
ちぐはぐなのは、わたしがパジャマだったことだ。でも久しぶりに髪にドライヤーも当てられて、少しはまともになれたかも。
料理の話以外、なにも話さなかった。それはすっかり安心していたからだ。話をして繋がなくちゃいけないものはなにもなかった。
黙っていても、繋がっていた。
夜更かしは大概にしろよ、と言い残して拓己さんは先に寝てしまった。体力温存のためらしい。
わたしはすっかり気持ちが高揚してしまって、テナントをぶらぶら見て回った。それに佳祐が付き合ってくれる。
「この服どうかな?」
「こっちの色は?」
何事もなかった時にも交わしたことのない会話が暖かい。ふと触れ合う指先が恥ずかしい。
気がつくと、どちらからともなく手を繋いでいた。それはふたりが繋がっている証拠だ。繋がれば繋がるほど、より深く繋がりたくなるのはどうしてなんだろう? 『恋』にはそんな秘密が多い。
エスカレーターを下りて二階に行く。
『不安定な場所』と言われたところだ。
確かに半分くらいは水没していて、それは前に来た時より広がっている気がすると佳祐は言った。
GUで動きやすい服を選ぶ。
UVカットのパーカー、Tシャツを半袖も長袖も何枚か、デニム、そんなもの。
選んでいてもすぐ後ろが水没しているので気が気ではない。手早く選んで三階に戻った。
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