6-(3)

 ◇


『守りたいひと』がずっといる。

 例えば六歳年下の妹、恵美理えみり。大きくなってどんどん生意気になってきたけど、それでもやっぱり実の兄だからこそ守ってやれることがあるんじゃないかと思ってる。

 ここに来てから言葉にはしないけど、恵美理のことを忘れてるわけじゃない。

 恵美理が心配だけどその前に、目の前に守るべきひとがいるからだ。

 どっしり構えてないとみんなの心が揺らぐ。みんなが不安でパニックを起こしそうならどんと構えていなきゃ。


 綾乃。

 高校合格が決まってすぐに告白された。中学からオレたちが住んでるマンションへの帰り道、突然だった。

 車の通りの少ない、古い家が両脇にごみごみと並んだ道を歩いていた時、告白された。

「え?」

 え、いま、なんて?

 綾乃の隣にいる名璃子はそっぽを向いて知らない顔だ。こっちを見ることもない。ただ、友だちの告白に付き合っただけ、そういうスタイルだ。

 ずっと確かに三人だった。

 けど、三人の中でも名璃子との間になにかの繋がりを感じていたのはオレだけだったのか? お互いにしかわからない感情。物事の心での受け止め方。オレたちは実はとても似ているところがある。

 名璃子はいつもクールな顔をしているけど、オレと基本は変わらない。長男、長女だからなのか家族のことですぐに震える。心の中はすごくナイーブなんだ。

 そう思っていたのは勘違いだったのか?


 その時、名璃子が小さくふぅとついたため息は綾乃には聞こえなかったんだろう。綾乃はいつも自分のキラキラした世界にいる。それが悪いことじゃない。いわゆる人生エンジョイ勢だ。

 オレは名璃子のため息を確かに聞いた。だから言った。「いいよ」って。

 ひとりになると考える。

「いいよ」ってなんだよ? 「オレも」とか、「すきだよ」とか、もっと聞こえのいい答えをどうして返してやれないんだろう。

 初めて手を繋いで帰った時、「ね、いいでしょ?」「いいよ」。感慨のない、請われたから応えただけの。


 綾乃の手は小さくて柔らかかった。小さい時から何度も繋いだ手だった。思っていた以上に昔と変わらなかった。

 名璃子の手はどうなんだろう?

 ずっとピアノを習っていた名璃子の指は細くて長く、骨ばっている。子供の頃の名璃子の手とはきっと違うんだろう。

 そんなことを想像する自分があほらしかった。ベッドの上から向かいの壁に、抱えてたクッションを投げた。

 クッションはポスっと情けない音を立てて静かに落ちた。


 ◇


 名璃子が八歳の時だ。

 名璃子と妻・聡美との別居を決めた。

 理由は――よくある自分の不倫で、相手は年下で甘え上手なかわいい子だった。当時の贔屓目を抜きにしても、魅力的な子だった。

 名璃子と聡美とは夫婦共に世間体を気にして、離婚より別居を選んだ。新しい事業を立ち上げたばかりだった。

 聡美は賢くてタフな女性だ。「あなたの女性関係に振り回されたくないの」と言って別居を決め、昇進を決めて、名璃子を立派に育て上げた。


 同棲を始めるとすぐに『彼女』は世間によくある通り、結婚を迫ってきた。つまり、聡美と名璃子との繋がりを一切断つこと。離婚だ。それを口約束だけではなく、実現させようとしたわけだ。

 なぜだろう?

 裏切っておきながら「それはできない」と言った。名璃子がかわいかったのかもしれないし、本当は聡美の弱さを知っていたからかもしれない。お金を渡すだけの仲になっても、離婚はできなかった。


『彼女』は離婚はないことに同意しておきながら、私をなじった。「子供が欲しいの」と泣いた。

 同じ部屋に住みながら互いに少しずつ疎遠になり、口もきかなくなってきた。

 ある日、ほかに男ができたと告げられた。要するに乗り換えられたわけだ。

 聡美に告げると「もう関係ない」と跳ねつけられた。当然だ。突然、仲の良い家族に戻ろうと言ってもそれは虫のいい話だ。


 結局、私はそもそも心の駅のホームで電車を待ち続けていたんだ。来るはずのない電車を。

 どこにも行き場所がなかったから。

 どこへ向かえばいいのかもわからなかったから。

 いまそれを名璃子に教わっている、不甲斐ない父親だ。


 ◇


 雨は止みそうになかった。

 もうあれから何日、ここにいるだろう?

 梅雨入りしたのかもしれない。

 気をつけないといけないことはなんだろう?

 そうだ、洗濯物を部屋干しできるようにしておかなくちゃ。二日連続降る日もあるだろうし。

 駅はまだ存在していた。傾いているようにも見えるけれど、それは心が補正をかけてるからかもしれない。まだふかふかのベッドは健在だろうか? ライフラインは健在だろうか?


「もう来ないかと思ってたよ」

「……暴れても泣いても仕方ないもの。湖西くんにもどうしようもないんでしょう?」

「謝っても謝りきれないと思ってるよ。僕が勇気を出して君に、普通に声をかければよかったんだね、きっと」

 かもね、と答えた。

 そうしたらわたしはどうしたんだろう?

 もしかしたら湖西と仲良くなって、あのベンチに座って、話しながらお菓子を食べたりピアノのことを聞いたかもしれない。

 笑える。

 ベンチはここにはもうないけれど、ほかのことは全部ここで、もうしたことばかりだ。

「ここに来たのには理由があるの。またアラベスクを聴かせてほしくて」


 アラベスクをたっぷり聴かせてもらった後は心の奥まで水に浸された気分になった。

 雨の中は水の中と同じ。

 わたしたちは水族館の水槽の中をぐるぐる泳いでいる魚と同じだ。ぐるぐる回っても出口はどこにも見当たらない。どこにもたどり着けない。


「傘」

「こんなところにいると濡れるぞ」

 わたしは校舎と体育館を結ぶ渡り廊下に立っていた。紫色のあじさいが色鮮やかに咲いているのを見つけたから。

 ここには動く生き物は虫一匹いない。湖西は虫が嫌いなのかもしれない。それから動物園も。

 佳祐に作らせた世界ならどうだろう?

 ほのぼのと牧草地が広がっているかもしれない。

「なに笑ってるんだよ」と彼は不機嫌そうな顔をした。彼が傘を持つ手に自分の手を添える。植物ならここでも生きている。


「水の世界に住んでるのに、傘なんて久しぶりに使ったね」

「確かに。濡れることは当たり前だったかもな、いままで。でもさ、やっぱり名璃子が雨に濡れるのを黙って見てられないよ」

「ありがとう、大事にしてくれて」

 背の高い彼の肩に触るか触らないかわからなかったけど、頭を寄せてみた。ひとに寄りかかるというのは、寄り添うとはまた別の意味で気持ちがいいことを最近、知った。

 でもそれもこれも、寄りかかれるひとがいるからこそ為せることだ。


 こんな世界でも、わたしはしあわせなのかもしれない。

 パパもいるし、佳祐がいる。

 ひとりには、戻りたくない。

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