7-(1)
嫌な雨は夜中に風を伴い強く降って、明け方には上がっていた。どんよりとした雲が低く立ちこめる。水も空もすべてがグレー。白でも黒でもない。
そしてまた夜になるとポツポツと降り始めて雷まで鳴る。嵐は猛威を奮って校庭の木の枝が折れて、青いまま葉は散った。
駅は日々傾いて見えて、もうこれ以上立っているのは難しいように思えた。
拓己さんがいなくなったいま、筏を出そうという気力のあるひとはいなかった。
誰も駅の惨状を見たくなかったのかもしれない。
そんな日が三日ほど続いて、翌日は底抜けに晴れた。
まさに青い空と青い地平線が一文字にぐるりとわたしたちの世界を巡っていた。
わたしは足取りも軽くなり、洗濯物を干そうと屋上へと足を運んだ。
「うわー、まさに真っ青」
空には雲ひとつなく、水面は静かに凪いでいた。こんなに爽やかな陽気はここへ来て初めて、というくらいで腕を上げて大きく深呼吸した。
この不思議な世界も、わたしたちの世界と同じくシンクロして夏に向かっているんだろうか? 蒸し暑い日が多くなってきている。梅雨の晴れ間を思わせる空を目に焼き付けた。
屋上にはわたしたちの作ったSOSの残骸となった机が雨と埃にまみれて、もう二度と使えないもののように見えた。わたしはそれをひとつひとつ、なんとはなしに指の先で叩いて行った。
こつん、こつん、こつん、……。
「……っ!」
慌てて階段を駆け下りていく。どこ、どこにいるの?
教室にはいない、体育館?
「名璃子ちゃん、どうしたの?」
「佳祐はどこか知ってる?」
「体育館かな」
ありがとう、と言ってまた走り出す。汗が出るのが止まらない。膝はガクガクして、ふくらはぎはパンパンだ。
「佳祐ー!」
出せる限り、大きな声を出す。
両手でボールを挟んで持った姿勢で振り向いた。
「どうした?」
そのボールを放り投げて、体育館入り口に座り込んだわたしに駆け寄ってきた。
「あの、わたし、屋上にいたんだけど」
「ひとりで危ないところに行くなよ」
「ごめん、それでよく晴れてるなってぐるっと周りを眺めたら……」
「――なにか見えた?」
佳祐は真面目な顔でわたしの目を覗き込んだ。わたしはそれに答えるよう、うん、と頷いた。
「マンション」
彼は口を開けて、その顔でしばらく止まった。信じられない、と呟いた。
わたしの家も、佳祐の家も同じマンションにある。
もしかしたら――わたしたちの大事なひとが、そこにいるかもしれない。
「落ち着こう」
「うん、落ち着こう」
「心臓がヤバい」
「うん、ここまでがんばってよかった。……よかったぁ!」
佳祐はわたしの背中をさすった。いまは泣いても許されるんじゃないかと思ったから、泣きたいだけ泣いた。
「でもさ、名璃子。慎重に考えよう」
「わかってる。もしかしたら……ってこともあるかもしれないって忘れたらいけないよね」
「そう。残念な結果が出た時に絶望的な気持ちになって
それは、その時にならないとわからないと思った。そこにママがいなかったらわたしは泣くだろう。わたしは絶望のふちに立たされるかもしれない。そうしたら――。
「お前にはオレがいるから。必ずお前とお母さんを会わせるって約束するから、もし今回会えなくてもいつか会えるって信じよう」
佳祐の目を見て頷いた。
「約束するよ」
「よし。顔、洗ってこいよ。みんなにも話そう」
顔を洗ってさっぱりすると、教室にはみんなが集まっていた。と言っても綾乃はいない。拓己さんもいない。
もしも拓己さんがいたならなんて言っただろう?
「これで全員集まったな」
「窪田くん」
湖西が佳祐に声をかけた。
「見たよ、僕も。君たちのマンションで合ってる?」
「……マンションがあったのか? ここからは見えるのか? 聡美は中に」
パパは図書室にいることが多かったから、窓の外を見たりしなかったんだろう。ベランダまで歩いて行った。
「確かに、うちのマンションだ」
「名璃子ちゃん、良かったね」
湖西は嫌味のない笑顔を見せた。彼はわたしを家に帰したくなかったんじゃないんだろうか? どういうつもりなんだろう。
「それじゃあ迷うことないじゃない。駅よりも近い。昨日までの雨で筏を使うにも十分な水位だ。そうでしょう? ……ごめん、僕にはこの世界をコントロールする力は無いみたいなんだ。本当なら僕がここを終わらせられるといいんだけど。してあげられることはこのくらいしかない。僕はみんなの仲間にしてもらって、たくさんのものをもらったのに返せないんだよ、ごめん」
胸がいっぱいになる。
わかってる。マンションが見つかったって、なんの解決にもならないこと。でも、それでも。
「昼飯食ったら行くか」
誰も反対しなかった。
「恵美理ちゃん、泣いてないといいね」
「まだよく泣くからな」
佳祐はくすっと、リラックスした笑顔を見せた。上を向いてこう語った。
「どんなことだってさ、乗り越えられるんじゃないかな? 諦めないでいればさ」
うん、と答える。
「だからさ、オレは最後まで諦めない。バスケだって時間ギリギリになっても、その時無理な姿勢でもシュートを打つだろう? もしかしたら入るかもしれないって強く念じて、ボールに希望を託すんだ」
希望を託す。
その言葉はわたしの心の中に新しい風を運んだ。
物事は絶望と諦めでできてるんじゃない。中には『希望』という名の卵が埋まってることもあるんだ。
「そうだね、希望を失わないようにしなくちゃね」
ちょっと前に同じようなことをわたしに言ったひとがいたことを思い出した。
――希望を失ったらダメだ。絶望は喜んで君を死に引きずり込むから――
拓己さん。拓己さんの言葉を危うく忘れるところだった。
もし今度がダメでも次、そしてまた次、いつまでだって可能性はあるはず。わたしが希望を捨てずにいるうちは。
久しぶりに見た赤いボートに希望という名の荷物を一緒に乗せる。
昨日までの雨で水位は十分。逸る心を抑えるだけで精一杯。期待と不安でいっぱいになる。
「そんな顔をするな。聡美は……ママは、パパが見つけるから心配しなくていい」
ボートに乗ったパパは厚い、力強い手でわたしの手を握った。わたしとパパの仲には、ここで一緒にいた数日間の中でも特になにもなかった。でも、わたしがパパを思う気持ちは大きく変化していた。
パパは大人の男性だ。遠慮せず頼っていいひとなんだ。
「名璃子、そう言えばネックレスはどうした? いや、気に入らないならそれでも構わないんだ」
「違うの、しまってあるの。このリュックの中に。いつでも落とさないように」
「そうか。……実はママにもプレゼントがあるんだけど、受け取ってもらえるかな、今さら」
「……喜ぶと思うよ」
きっと喜ぶと思う。
なにもかも思い通りにならないこの世界でもらうプレゼント。それがなになのかわからないけど、ママもわたしと同じく喜ぶんじゃないかな。そう思えた。
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