7-(2)
マンションの建つ土地はなぜか隆起していた。でもそんなことはどうでもよかった。ここは不思議なことが平気で起こるところだから。
「名璃子」
一番前に乗っていた佳祐がわたしの手を掴む。指と指はぎゅっと握られて離れない。恐る恐る、上陸する。
「上だね」
「上だ」
わたしたちは自分たちの家のある階を見上げた。そこには救援を求めるなんらかのサインは見つからなかった。
誰もいないのか。
それとも、まだここに突然マンションは現れたばかりなのか。
「ボートは僕が上げておくから、とりあえず三人は先に行って」
湖西がそう促してくれたので、わたしたち三人は頷きあって、早くもなく、遅くもないスピードで外階段を上り始めた。
「エレベーター、暗かった。電気が使えないんじゃないかな」
「とりあえず水も食料も多めに持ってきてよかったね」
心臓が早鐘を打つ。
五階――わたしたちの家がある階。わたしのところより佳祐の方が手前の部屋だ。
「行ってくる」
頷く。
パパはわたしを追い越してドアの鍵をもう開けようとしていた。
「聡美!」
……ママはスーツ姿のまま、リビングの窓から外を眺めていたところだった。
「ママ」
「名璃子! パパと一緒になったの? 心配したんだけどなんともないのね!?」
ママ……言葉にならない。ママに思い切りハグをした。どれくらいママに会いたかったことか……。
「ふたりはどうやって会ったの? わたしは確かに仕事中だったのよ。職場にいて、大きな地震の縦揺れが来たと思ってデスクに手をついた拍子に、デスクだと思ったそれがこのリビングテーブルだったの。ひどい地震だったから、名璃子が心配だったのよ。よかった……」
ママはわたしの頭に手を当てて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「わたしはしおさい公園にいる時。友だちがいっぱい助けてくれて」
パパがわたしの背中を軽く叩いた。
「私もお前と同じだよ。仕事中に。ただ着いた先が違ったんだ。私が着いたのは、そこの駅のホームだった。なにか
ガチャ、とドアが開いて佳祐が、遅れて湖西がやって来た。
「恵美理ちゃんは?」
「恵美理は来てないみたいだ。安心したけど、やっぱり心配が勝る」
佳祐くん、久しぶりね、とママは呑気な挨拶をした。佳祐は、どうも、と固くなって頭を下げた。
ママの呑気な態度を見て、本当にこちらに来たばかりなんだと思った。
ママはベランダに出て、見える限り外の景色を確かめているようだった。
「どうしたらこんなことになるの? 干潟が無くなるなんて、夢って都合のいいとこ取りね。潮の匂いさえしないじゃない。それにしてもなにもないわね。あなたたちはどこから――?」
気持ちのいい風が部屋を通る。
ママは目を軽くつむって、風を堪能しているようだった。
その時。
例のアレがやって来た。
ガツーンと地面の底から突き上げるような衝撃があり、水平なはずの床が曖昧になる。
ひどい目眩がわたしを襲う。
「ママ!!」
きゃあ、という悲鳴が部屋に響く。まだ上手く立っていられないわたしは動くことができない。
ママのいるベランダが湾曲して、手すりはまるで線路同様、溶けるように曲がっていた。
ママはその手すりに掴まって……パパが、そう、もうずいぶん長いこと一緒にいるところを見たことのないパパがママの手を引いて部屋に引きずりあげようとしていた。
「もう少し……もう少しだ、聡美。がんばるんだ」
このままじゃママはあの、底無しの水底へ落ちていってしまう。
「あなた……いいのよ、離して」
「いい訳あるか! お前がいなくなったら名璃子はどうする? お前がいなくなったら私は……もしもう一度機会があるなら、二度とお前を離さないって決めたんだ。それがいまだよ。なにがあってももうお前を離さないから安心しろ」
ママはなにも言わなかった。
ふたりの手は離れることなく、ママは無事に引き上げられた。
「……怖かった。本当にありがとう」
わたしはまだ目眩が残る中、パパとママのところに近寄った。その場は三人でいる方が似つかわしいと思ったからだ。
佳祐の隣から一歩ずつ、確かに――。
ガツーン!!
あ、と思った。
本当に驚いた時にはそれくらいしか思えないのかもしれない。
あ、と思っている間に、ベランダの入り口にしゃがんでいたパパは、水に、落ちた。
絶叫したのはママだった。
パパの体は抵抗することもなくするすると水中に飲み込まれていった。
ママは、いつも綺麗にしている顔を歪めて嗚咽を漏らして泣いた。
「嘘よ! 信じない、こんなの! ひどいわ、わたしが意地を張っていたからってこんなのひどい! あの女と別れた時に、なんで素直に受け入れられなかったんだろう……」
ママのその言葉を聞いて、湖西が部屋を横切ってわたしの肩に手を置いた。
「名璃子ちゃん、お父さん、僕が責任をもって探してくるから」
「え、無理だよ。わたしたちは水に沈まない……湖西くん!」
助走をつけた湖西は完璧に、綺麗なフォームで水に飛び込んだ。
水面は驚くべきことに彼をそのまま受け入れて、湖西は水の中に沈んで行った……。
「もうたくさん! わたしはもう誰も失いたくない!!」
パキーン、と鏡の割れるような音が世界に響き渡った。
無くなったベランダから音の鳴った方向に目をやる。それは頭上はるか上のことだった。
信じられないことに無数の空の欠片が、互いに『青』を乱反射して降り注いでくる。暗闇をバックに、キラキラ輝きながら空は割れた――。
震動は幾度も度重なり、マンションはだるま落としのように一階から順に崩れていくようだった。
泣き続けるママを支えようとして、佳祐に支えられる。
壊れる――。
理由はわからなかったけどそう思った。この世界はここで壊れる。
「佳祐! ここはもう保たないの。ママをお願い」
「名璃子はどこに行くんだよ?」
「行くべきところへ。ごめんね、たぶんここは、わたしと湖西くんの心がたまたま一緒に作用をして閉じられた世界なんだと思う。いまだからわかる。わたしもここを作ったひとりなんだよ。でもね、わたしはもう大丈夫。ベンチに冴えない顔で座ってた時と違う。たくさん知ったの。わかるわけないと信じてた
名璃子、と大きな声で呼び止められることがもううれしい。誰かがそんなふうにわたしを大切に思ってくれるなんて今まで信じられなかった。またね、とは言わずにお別れのキスをする。ママの前だし、頬っぺに触れるか触れないかというくらいの。
次に会う時、わたしも彼も今と同じじゃないかもしれない。わたしも彼もお互いを諦めていた頃に戻るかもしれない。
そうなったら、今度はこんなに拗れる前に綾乃に言えるかな? 佳祐をすきだってこと。どうしても曲げられないってこと。
ママがわたしを心配して手を伸ばしてくれる。ママはいつでも暖かかったけど、本当は心が離れているんじゃないかって心配だった。
ママのためになにかをしなければ捨てられちゃうんじゃないかって、漠然とした不安がわたしを常に捕らえていた。
スーパーで買い物をする時、ひとりの帰り道。ふっと魔が差したようにさみしさがわたしを連れ去ろうとした。
そしてパパ――。パパがママの身代わりになるなんて。そのためにママがあんなに悲しむなんて。
血の繋がりなんて、ただの遺伝子の繋がりでしかないと、そう思ってた。本当はなにも、なにもいらなかったの。ただ家族でまた一緒にいられれば。心が通じ合えば。
それを知ったから、わたしの頑なだった想いは、この空は、割れたんだよ。
教えてあげなくちゃ、湖西にも。
ダメだと思って諦めていたことでも、それを希望に変えれば叶うかもしれないってこと。
わたしたちは自分の背中が見えないから気が付かないだけで、本当はみんな、希望を背負ってるんだってこと。
教えてあげるんだ……。
ぐにゃりと溶けたベランダは呆気なくわたしにも飛び越えられた。
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