6-(2)
――信号が変わるのを待ちながらいつも通りの公園の中の、ベンチに座る君がいるかどうか一か八か目を向けたんだ。
ベンチには君がいた。
信号はまだ赤だった。青に変わって歩き出した瞬間、思ってもみないことが起こった。
……世界が変わったんだ。
僕の視界にあったものすべてが消えた。
はっとして名璃子ちゃんを見るといまにも倒れそうだった。僕は彼女の名前を呼んで彼女を抱きとめた。
そうしたら君は言ったよね? 僕の名前を。
僕はあの時、君を離さないって決めたんだ。
◇
湖西の目はいきいきとしていた。
まるで、人生の目的を見つけたかのように。
でもそれが『自分』なんだとすると……。
「なるほど。夢が現実になったというわけか。非常にわかりやすいね」
「パパ! いまの話を信じるの?」
「どうかな。真偽のほどは置いておいて、彼にとっての学校というもの、それからピアノ、そして名璃子ということはわかった気がするよ」
パラパラと雨の音が聞こえてきた。
窓の外に目をやると、どんよりとした黒い雲が水平線を越えて水面まで侵してしまいそうだった。
「……そんなこと、できないだろう、普通」
ボソッと呟いたのは佳祐だ。
「『世界を変える』なんて大それたこと、願望だけでできるものか? お前の勝手な願望のせいで綾乃は、拓己さんは、それから大勢のひとたちは」
「どうかな? 外の世界のことはわからないんだ」
「外の世界?」
「そう、恐らくここは僕だけの世界。招待したのは名璃子ちゃんだけのはずだった。ただほんの数時間、名璃子ちゃんとふたりきりで話がしたかったんだ。こんな苦しい状況下で名璃子ちゃんを不自由にしようとは思ってなかったんだ。ごめんよ、名璃子ちゃん。こんな不便な思いを長いことさせて」
「ちょっと待てよ、お前の世界ってなんだよ? どうしてそこに関係のないオレたちがいるんだよ。どうなってんだよ」
湖西は顎の下に手を当てて、しばらく考え事をしていた。その時間は長く感じられた。
そうしてようやく彼が口を開いたと思うと、彼の口から大きなため息が吐き出された。
「おかしいんだ。なんで君たちはここにいる? 何度もそのことを考えた。ましてあの駅。なんでそんなものが? どうせどこにも行けないのに」
「『行けない』ことの象徴じゃないかな? 少なくとも私はそう思って、ホームから両脇が溶けながら沈んでいるレールを眺めていた。ああ、私はここから先にどこへも行けないんだと」
雨の音だけが教室を満たした。
パラパラと降っていた雨はいつの間にかまとまった雨になり、水の色はすっかり濁って波立っていた。
「湖西! ここが自分の世界だって言うならここから出してくれよ! 本当の世界にオレたちを返してくれよ!」
「窪田くん、それが自由にできるなら僕はもうとっくに君たちを返してるよ。名璃子ちゃんだけいればいいんだから」
ゾクッとする。
わたしはやっぱり捕らわれてしまったの?
湖西と一緒にこのままずっとピアノを弾いて過ごすしかないの?
「……水に沈んだひとたちは?」
「名璃子ちゃん、ひとつ言い訳をするとね、僕は渡辺さんを引き止めたんだ。あの場所に立っていた彼女を見つけて、やめるように呼びかけたんだよ。だってこんなことになったら名璃子ちゃんも傷つくとわかっていたから。でも止められなかった。彼女は僕を見て言ったよ。『ずっと一緒にいられなくてごめん』って。……タク兄のは見ての通り、不可抗力だ。僕も沈んでほしくないと思ったから必死に止めたんだ。そうは見えなかったかもしれないけど、タク兄は僕が心を開ける数少ないひとだから」
手の指も、足先も冷たくなったような気がした。寒気に体がブルっと震えた。佳祐がわたしの手を握った。
「訳がわかんないことばっかりだ。しかも湖西にもわからないことが多いなんて、行き詰まったようなものだ。とにかくここをなんとしてでも出なきゃいけない。そうだろう? みんなが待ってる。きっと、綾乃と拓己さんも……。とりあえず名璃子が疲れた顔してるから、休憩させてやって」
張り詰めた教室の空気が一息に解れた。
「あれだな、親父さんがいるっていうのはどうしていいのかわかんないな」
こそこそっと保健室のカーテンの内側で佳祐は呟いた。でもすでにふたりきりでこんなところにいることがアウトじゃないかと思うと、そっと笑みがこぼれた。
「もう公認だね」
「怖くて目が見られない」
「パパは……辛いこと、いっぱいあったけど元はやさしいひとだよ」
そうだ、やさしいひとだった。いまになってよくわかった。
パパのわたしを見る目は『父親が娘を見る目』以外のなにものでもなかった。その眼差しだけで、守られていると強く感じられた。
佳祐がくれる『安心』とはまたちょっと違う『安心』をパパはくれる。大きく囲まれているような。
「少し寝た方がいいよ」
「うん。そうしようかな」
「寝るまでここにいるから」
「だからそういうのはいいって」
「じゃあ、お休みのキスの刑だな」
え、ちょっと、と焦っているうちに前髪がやさしく持ち上げられて、キスをされた。
「佳祐は、その、いつからわたしのことを?」
「気が付かないうちから。気付いた時はもうどうしようもなくすきだった。ごめん、なのに綾乃と……」
「その話はいまはしないで。わたしも後悔してるから。卒業前に公園のベンチで毎日時間を潰しながら座ってたのは、その、ふたりが付き合い始めてあまりいい気分じゃなかったからだよ。わたし、バカだ。おやすみ」
布団を被って背中を向けた。
恥ずかしすぎる告白だ。佳祐はどう思っただろう? 呆れたかもしれない。
彼はわたしの丸まった背中を布団越しにポンポンと叩いて保健室を出て行った。
◇
夢の中でわたしはベンチに座っていた。そう、いつものあのベンチだ。
隣にはいつも通り誰も座っていない。
リュックから飲みかけのドリンクを出すと、ふたを開けて一口飲んだ。
本当は喉が乾いていたわけじゃなかった。乾いていたのは、たぶん心。隠しようもなく、心はガサガサに乾いていた。
高校受験が終わると綾乃は佳祐に告白して、ふたりはあっさり付き合い始めてしまった。あ、世の中ってそういうものなんだ、と軽い衝撃を受けた。わたしが佳祐に感じていた共感は彼にとっては大した重みのないものだったということだ。
そんなつまらないことを考える自分が嫌だった。
佳祐と自分が付き合いたかったのかと言われたらそれは微妙だった。『今』が変わることは怖かった。それでどうなるのか、わたしたちはどこに向かうのか、ベンチでぼんやり考えた。
答えは出ない。
だってふたりはすでに付き合い始めているんだから――。
ふたりの間に勇気を持って飛び込んだら?
それは。
それはで、ずっと軽蔑していたパパと同じになってしまう。そう思った。
自分の気持ちをねじ伏せて、心を歪めてでも佳祐のことは『過去』に変えなくちゃ。きっとこんな幼い想いは簡単に消えるはず。人魚姫が海の泡になったように、想いも思い出に昇華するはず。
わたしには実際、ママしかいない。
仕事に一生懸命なママは、ひとりで娘を育てているのに容色が衰えることがない。キレイなママ。ママはわたしの自慢のひとだ。
でも、なぜかわたしはもうふたりきりの生活に疲れていた。
だからと言ってママに再婚してほしかったわけじゃないし、パパが戻ってくることは考えられなかった。パパはほかの女性ひとと暮らしている。まだ戸籍上はわたしのパパだけど、本当にパパかどうか怪しい。
どちらにしても疲れていた。
風に乗ってどこかに行ってしまいたいような、水に流されてどこかに行ってしまいたいような、そう、どこかに。
いまの自分が嫌いだった。
かと言って自分を捨てるわけにはいかない。
だから、ここではないどこかに行ってしまいたいと、心の奥底でぼんやり考えていたんだ。
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