6-(1)
びしょ濡れだった湖西を着替えさせてパパは教室に連れてきた。
教室の空気はため息ひとつつけないくらい張り詰めていた。
とは言え、もう教室にはパパと湖西、わたしと佳祐しかいなかった。残りのふたりは姿を消していた。
「それじゃあ湖西くん、話してほしいんだけどいいかな?」
「……どこから話せば」
パパは剃り残しのある顎を撫でた。
「始めから、と言いたいところだけど君の思うところからでいいよ」
教室には沈黙が居座った。
湖西は本当にどこから話したらいいのかわからないようだった。
わたしは佳祐と手を繋いでいた。彼がわたしを忘れて湖西を怒らせたりしないように。
◇
――僕の話はみんながもう知っている通りだ。ピアノ以外は大して面白いところのないやつ、それが僕だよ。
高校に合格した時、周囲から向けられていたプレッシャーから解放されたと感じた。僕が欲しかったのは『高校生活』じゃなくて『高校合格』だったんだと気づいた。
それですることもなくなって、逃げ込むようにピアノ教室ばかり通ってた。ほかに行くところはなかったからね。合格してしまえばもう無言のプレッシャーもなくて、すきなだけピアノを弾かせてくれたよ。
浪人していた間も反対されることはなかったんだ。みんな腫れ物に触るように僕に接していたから。でもやっぱり合格するまでは自分で自分なりのルールを作ってたんだ。
僕の通うピアノ教室はしおさい公園のすぐ近くなんだ。だから教室が終わるとよく気分転換に公園に行ったんだ。
ある日、まだ桜のつぼみが膨らむ前、公園に行くと前にも見かけた子がまたベンチに座ってカモメを見ていた。でもその子はカモメがすきだというわけじゃなくて、カモメしか見るものがない、といった感じだった。長い髪が風に揺れて色の白い首筋が見えたんだ。綺麗な子だと思った。
次の教室の日も、期待してたわけじゃないけど公園を覗いてみた。その日も彼女はそこに座ってふとこっちを見たんだ。僕は見てたことがバレたんじゃないかと焦ったんだけど、そんな感じではなかった。
彼女は教室のある日はほとんど同じベンチに座っていた。楽しそうに見えることはなかった。いつも、遠くを見ているような目をしていた。なにか、失われたものを抱えているような。
高校の入学式、僕はみんなとは違ってまるで転校生みたいに先生に紹介してもらうことにした。だって僕は異分子だからね。そうしてもらう方が相応しい気がしたんだ。
教室の入り口に立つと、ものすごい後悔が僕を襲った。やってきたことのすべてが間違っているような気がしたんだ。でももう遅かった。
ドアが開くと一番近くの席に、よく見知った女の子がいた。もう中学の制服ではなかったけど一目でわかった。
『青山名璃子』と自己紹介で彼女は名乗った。いままでなんとなく見ていた彼女を、忘れられなくなった。
入学式の翌日。
ワイシャツを着てネクタイを結ぼうとしたんだけどなにかが違う。これからあの学校に通ってなにを学ぶというんだろう? その思いは体中を巡って、僕の手はネクタイを結び終えるまでに止まってしまった。
いつまでも部屋から出てこない僕を心配した母さんが呼びに来て、急いで着替えて向かったんだ。ピアノ教室に――。
それから学校には通わなかったけどピアノ教室に通うようになった話はしたよね。
学校に行けそうな気分の日もあったんだ、確かに。だけど足はそっちに向かわなかった。
悩まなかったわけじゃないんだ。
こんなの普通じゃないってずっと思ってた。
でも、浪人した時点で普通じゃなかったでしょう? その前にほかの学校の入試を拒んだことも普通じゃなかったでしょう?
僕はもう普通という枠外に外れてしまったダメな人間だ。
名璃子ちゃんのことを考える。みんなはそんな状況なら学校に行って名璃子ちゃんと同じ教室に入ればいいと考えるかもしれない。確かにいい考えだ。でもこんな僕にはそんな資格はないと思ったんだ。
ところがある日、不思議な夢を見た。
制服を着た僕がいる。当たり前の顔をしている。
同じ制服を着た名璃子ちゃんがいる。彼女はいつもの難しい顔じゃなく、微笑んでいる。
僕がなにか言うと彼女は笑う。
僕はうれしくなってもっともっと彼女を笑わせたくなる。
ふと、足元を見るとそこはしおさい公園でも教室でもなくて、公園のベンチの下は一面の水だった。僕は驚いて足を上げた。名璃子ちゃんは「どうしたの?」と変わらない態度で僕に聞いた。
そろりと足を下ろすと、別に水は冷たくも熱くもなかった。
彼女はまだ話し続けている。話し相手が必要だ。だから僕は席を立たなかった。
翌日も夢の中で名璃子ちゃんとふたりだった。僕たちは飲み水も持たずに暑い日差しの中、浅い水の中を歩き続けていた。
お互いにもう少し、もう少しと励ましながら歩いていく。名璃子ちゃんが指をさす。「ほら、学校までもう少しだよ」。澄んだ声が残酷なことを告げる。
学校になんか行きたくないよ。
そう思っても健気に足を運ぶ彼女をひとりにすることはできなかった。
三日目の夢は、学校の中に彼女とふたりきり。しかも丁度いいことに学校は水に囲まれた浮き島みたいになっている。
名璃子ちゃんと僕は窓の外の水平線を見ている。
僕はリュックからペットボトルの水を出すと、名璃子ちゃんが化学室から持ってきたアルコールランプに火をつけた。
ふたりで揺れる赤い炎を見つめると笑いがこぼれた。
僕は彼女の笑顔をもっと見たくて、リュックからプリンを取り出す。彼女はとても喜んで――。
◇
「あ」
わたしの声にみんなが振り向いた。思った以上に大きな声だったらしい。
あの翌日、綾乃が美味しそうに食べたプリンは……。
「そうだよ名璃子ちゃん。君を喜ばせたかったんだ。いつも浮かない顔をしてる無表情な君を、笑わせたかったんだよ。プリンは嫌いだった?」
「……ううん」
湖西はやわらかくわたしに微笑んだ。わたしはなにかどうしようもなく取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないかと怖くなった。
◇
それで僕はやるだけやってみることにしたんだ。いま思うと本当にバカげているけど、多分自分でもいつも通りの毎日を送っていたらダメになると思ってたんだね。
ピアノ教室もない日だった。
制服を着て、リュックにはコンビニで買った水と食べ物を入れた。量は適当で、それでもリュックいっぱいに買った。
――今日、もしかしたら夢が現実になるんじゃないか、というバカげた妄想は僕を捉えて離さなかった。
この鬱陶しい毎日の中に、彼女が登場してくれたら。
でも夢は夢だ。それくらいはわかっている。
夢のとおりにならなかったら、今日こそ彼女に話しかけよう。
ふたりでお互いに失ってしまったなにかを少しでも埋め合えるかもしれない。
僕は公園前の交差点で信号待ちをしてたんだ。不安と期待を胸にして。
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