1-(3)
学校に着いた頃にはわたしはへとへとに疲れてしまって、コンクリート製のしっかりした門柱に倒れ込みそうになる。
高台にある学校は、しっかり水気のない大地に根を下ろしていて頼もしく見えた。いつもはただそこにあるだけの門柱が、なぜかすごく懐かしい。
門柱の脇の大きなクスノキが涼し気な日陰を作っていた。
まだ下校時刻だったせいか、門は開いていた。話し合って、危ないことがあるといけないからと念の為に閉めた。内側に手を回せば誰でも開けることのできるフックをかけた。
そのまま昇降口に行って、湖西に励まされながら靴を履き替える。くたくただった。
……ああそう、室内ばきを履いた足に違和感を感じるのは、靴下を履いていないせいだ。ぐっしょりと濡れたローファーは教室に立てかけて、面倒だった靴下は絞って下駄箱に放り込んできてしまった。あとで回収に出なければいけない。
空も海も、向こうにあるたった一本の陽炎のような直線に向けて鮮やかな水色に収束していた。薄い雲が、その直線に向かって緩やかに流れていく。
その時ふと違和感に気づいた。
「席」
そう、湖西が座っていたのは窓際のいちばん後ろの席だった。あの、誰も触れない、みんなが無いことにしている席。
「僕の席じゃなかった?」
「ううん、合ってる」
なんだかドキドキした。あの席がまるで存在しないと思っていたのはわたしも同じだった。
座席の両脇に何もかけていない、机に置き勉の教科書一冊も入っていない机はあれひとつだった。自分で自分の席を見つけることができたのも納得だった。
「……そう言えば、湖西くんは今日、どうして制服? ひょっとして」
「ああ、それは。また今度話すよ」
またって、いつのことだろう。でもわたしは別にどうしてもそのことを知りたいわけじゃなかった。
「言いたくなければ言わなくていいよ?」
「うん、ありがとう。青山さんはさ、気をつかいすぎるところがあるんじゃない? こんなことになってもっと泣いたり大きな声を出したりするかと思った」
「そんなことになったら湖西くんが困るでしょう?」
「そうだね、僕が困る」
「だから、わたしは困らせないようにしてるの」
「それが『気をつかってる』ってことだよ」
湖西は肩肘をついた姿勢で苦笑した。
そう言えば湖西の笑顔を会ってからあんまり見ていない。まして、この教室で彼が笑うのを見たのは初めてだった。
わたしは席を立った。とりあえずやらなくちゃいけないことを始末しないといけない。
「どこに行くの?」
「昇降口! すぐ戻ってくるから」
教室の入口で軽く手を振る。
廊下にはわたしの走る足跡だけが聞こえて、誰かの足音も賑やかな笑い声も、先生がふざけてる子を叱る声も聞こえない。ましてや体育館で人が集まっている気配なんかない。
ああ、そうだ。
そうなんだ。
いま、学校にはわたしたち、ふたりきりなんだ。誤魔化しようのない事実にぞっとする。
ほぼ初対面に等しい男の子とふたりきり。どんな角度から見ても好ましくない。
「おかえり、本当に早かったね」
息を切らして走ってきた。早く、このことを湖西に伝えなくちゃいけない。胸が激しく上下する。肺が焼けそうだ。
「……ねぇ、水、出ない」
湖西は一瞬固まった。
次にどんな顔をしようか迷っているようだった。
「水道の水、どこも出ないんだよ」
わたしはほとんど半泣きだった。泣きたかったわけじゃない。涙の一滴だっていまは貴重だった。それを蒸留すれば飲めるのなら、いっそがんばって泣いてみせる。
「いい、落ち着いて聞いて。水道は止まってるみたいだよ。それから、電気も。ガスもこんなに地形が変わってるんじゃダメだと思う。ガス管が――」
「死んじゃう! 死んじゃうよ、わたしたち。助かってなんかいない。こんなんならみんなと一緒に消えちゃえばよかった。わたしもみんなと一緒に」
「……本当にそう思ってるの?」
そう聞いた声は厳しかった。その目は、わたしが視線を逸らすのを許さなかった。
「だって……怖いよ。計画停電とかとはわけが違うんだよ」
「わかってるよ。でもほら、水なら少しは」
彼はそう言うと、あの重そうなバッグから二リットルの水のペットボトルを三本取り出した。
「どう? 少しは安心できるかな?」
「……」
安心の前に、驚いて声が出なかった。
手品師がシルクハットからいとも容易く鳩を出すように、わたしたちの生命線を維持しようとしているこの人は誰なんだろう、と笑顔の向こう側を覗こうとする。でもわたしを安心させようとする笑顔の向こう側はわたしから見えない。
なぜって、わたしは彼を知らなさすぎる。
彼は何者なんだろう?
「それで重そうだったんだね、……ありがとう」
「いや、いいんだよ。ちょうど買い出しに出たところだったんだ。食料も少しはあるよ。たぶん、あのコンビニで青山さんと入れ違いになったんだと思う。僕が公園に着くと、青山さんはもうそこにいたから。カモメを見てたでしょう? こんなことになるとわかってたなら、もっと持てるだけ買ってくればよかったね」
彼のカバンからは調理パンと食パン、おにぎり、それからなぜかプリンまで出てきた。ゼリー状のエネルギー飲料もあった。
そう、そうなんだ。
確かにわたしよりあとに湖西は現れたように思う。公園に入る時、同じ制服の人は見かけなかったから。
みんな公園で寄り道したりしない。途中のマックやモスに寄るんだと思う。
「取り乱してごめんね、靴下を洗いたかったの。砂だらけのままじゃ気持ち悪いと思って」
「そうか、そうだよね。……でももう少し待って、水なら当てがあるんだ。そうだな、明日には見に行ってみよう? それまではこれで凌ごう。もっとも足は気持ち悪いと思うから、足先だけでも洗おうか」
使いすぎないよう工夫して、少ない水で足を流す。
最初に流した水は捨てないでバケツに汲んで、その水で一度足をよく洗う。少ない真水でもう一度流す。
湖西はわたしの手のひらに透き通った水をくれる。それで顔を洗うとずいぶん気持ちがすっきりした。
そして湖西もわたしと同様にした。
「ワガママ言ってごめんなさい」
「いいんだよ、聞けないワガママじゃなくて良かった」
バケツには顔を洗った水を残しておいた。『もしも』の時の備えだ。
明日には水が手に入ると湖西は言っていたけれど、わたしは安心できなかった。できるだけ物は温存した方がいいに決まってる。
「ねぇ、学校探検をしない? 真っ暗になる前に」
夕闇が夕焼けを追いかけて空を覆おうとしている時間だった。
「いいけど、どこに行くの?」
「具体的には……そうだな、食べ物のありそうなところとか。調理室とかどうかなぁ?」
「ああ、なるほど」
「それで考えたんだけど、アルコールランプってどうかな、と思うの。コーヒーを飲めるくらいのお湯なら沸かせるって化学部の子が言ってたの。そうしたらガスがつかなくてもちょっとしたお湯なら……」
「思いつかなかったよ、そうだね。スティックコーヒーやお茶なら職員室にもあるだろうし、いいんじゃないかな」
話を切り出す前にわたしはジャージに着替えていた。制服は重かったし、どうしても湿ってるような気がしたからだ。
カバンの中には予備の靴下も雨の時のために入れてあって、少しは清潔さを取り戻した気がしていた。
「じゃあ行こうか」
どこの教室もまだ鍵は開いたままだった。というより掃除中だったところも多かったみたいだ。掃除用具が散乱している。
――みんなはどんなふうに消えてしまったんだろう? この物の散らばり具合から見て、準備ができてからどこかに行ってしまったとは考えられない。
世界が水に覆われるのを見て慌てて逃げ出したのか? ロッカーの中にはカバンが置き去りになっているケースが何件もあった。
それとも、むかし本で読んだ海賊船のようにある瞬間にすべての時が止まったのか。
「ほら、青山さんが案内してくれないと」
「そうだよね、ごめん、ぼーっとしちゃって」
消えてしまった人たちのことは気になったけれど、その前に自分たちの命が大切だった。なんでもいいから利用できるものを探す必要があった。
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