1-(4)

 化学室はいつも通り埃っぽかった。

 部活の最中だったらしく、化学室も準備室も鍵が開いていた。手間が省けたぶん、わたしたちにはラッキーだった。

 アルコールランプはいつも通りよく目に付くところにあった。透き通る瓶の中の液体を確認する。

「あとはお湯に入れる飲みものだよね」


 職員室に入る。

 習慣から「失礼します」と小声で言ってしまって、湖西に笑われる。顔が赤くなるけどなにも言い返せない。

 職員室にあった懐中電灯を二本、忘れずに持って行く。夜になってから取りに来るのは怖いから。

「あった! 給湯室になんでもある。コーヒーもお茶も紅茶も! 湯のみもたくさんあるよ」

「青山さん、当たりだね」

 光を鈍く反射する給湯室の蛇口にふと目が行く。見ていたって出るわけはない。

 どこで飲もうか、狭い部屋の中で相談し合う。カップはふたつ。それからティースプーン。まぁ、やっぱり教室だよね、と話はすぐにまとまった。


 アルコールランプがほのかに揺れる。気がつけばすっぽり闇が辺りを包んでいた。

 大きめのビーカーに湖西が持っていた水を入れる。

 贅沢かもしれない。

 でも少し息抜きをしないと、わたしはやり切れなかった。

「……もっと泣くんじゃないかと思ったよ」

 向かい合わせに座った湖西の顔をぼんやり、橙色の灯火が照らす。闇はそこだけ切り取られて威力を失う。

「だってまだ実感がないもの。泣くほどの実感がない。夢かもしれない」

 彼の目がやさしく細くなった。


 このひとこそ、この状況が怖くないんだろうか? まだ取り乱してるところを見たことがない。元々、落ち着いたひとなんだろうか? どちらにしても情報が少なすぎる。

「夢か。青山さんの夢に出演できるなんて光栄だな」

「そうかな? 夢なんて偶然の産物じゃない? なんの当てにもならないよ」

「それでも、青山さんの記憶の最底辺に僕の存在があったなんてすごいよ」


 五月とはいえ少し冷えてきた教室の中、ランプだけがほんのり温かい。ビーカーの内側にはプツプツと小さな泡が見えてきた。

「なんでわたしのこと、知ってるの?」

 初めて湖西はビクッとした顔でわたしを見た。明らかに困っていた。彼の目が彷徨う。

 そんなことに理由をつけろと言われても、確かにないかもしれない。悪いことを聞いたかな、と思った時、彼はゆっくり口を開いた。

「青山さん、出席番号一番じゃない? 僕が教室に入った時、初めてよく顔を見たのが青山さんだった。入ってすぐの席だったでしょう? 入口に立った時から目に付いたんだ。髪も長くてストレートだし、ほら、印象的で」

「わたしって印象的なの?」

 なぜか湖西は一拍置いた。

「僕にはね」


 腐らせてしまうよりは、と教室の彼のカバンから調理パンを持ってきて、ふたりで一番日持ちの悪そうな卵サンドから手をつける。パンはきちんと包装されていたのでパサつくことなく、挟まれた卵はねっとりと甘かった。

 不意にお腹が鳴って、気まずくなる。

「緊張してたからお腹空いてたことも忘れてたんだよ。美味しいよね、卵サンド」

 うん、と小さい声で曖昧に答えてわたしは下を向いた。非常時とはいえ男の子と二人っきりの時にお腹が鳴るのは恥ずかしかった。

「カツサンドとハムレタスサンド、青山さんはどっち? 他にもあるけど」

「ハムレタスで」

「はい」

 湖西はサンドイッチを渡す時、わたしからわざと目を逸らした。彼だって女子と二人っきりじゃ居心地が悪いだろう。しかも、ほとんど初対面だし。


 彼のこと、全然知らない。

 中肉中背でどこにでもいそうな男の子。特に見た目、変わったところはない。強いていえば黒目がちの瞳に影を落とすまつ毛の長さが、存在感を増していた。

 美少年、というほどではないけど、よく見るときれいな目だ。

「なに?」

「ううん、なんでも……。いや、ほら、成り行きで二人っきりになっちゃったけど湖西くんのこと、わたし、全然知らないから」

 カサッと包装されていたビニールの上にカツサンドを置いて、湖西はこっちを見た。

「そうだね、その通り。どう思う、僕のこと」

「どうって。だから、わからないから」

「今日、少しは『知った』んじゃないかな?」

「……そうだね。えーと、思ってたよりよくしゃべるひとだった」

「無口そうに見えたの?」

「んー、だってペラペラ家でしゃべってるって想像はしないじゃない。もっと寡黙なのかなぁって。それから」

 口を閉じる。

 いや、ちょっと待って。

 なんだかとても失礼なことを言っている気がする。それから? わたしはなにを言おうと?

 一度口から出た言葉は戻ってこない。

「それから?」

「やー、なに言うか忘れちゃった。やだな、ボケてる」

 疲れてるからだよ、と彼は笑った。

 それから、もっと暗くているひとかと思ってた。自分の内側に深く、深く。そうして塀を空高く建てて。


 でもいま目の前にいる彼はそんなふうには見えなかった。初めて教室の前の席から入ってきた一ヶ月前の彼は俯いていてそんなふうに見えたんだ――。


「青山さんこそ、思ってたより大人しい」

「そうかな? あんまり言われたことない」

 なんだか照れくさくて前髪に手をやった。こういう時の癖だ。

「教室でみんなといる時の青山さんは、きっと楽しそうに笑ってるんだと思ってた。ほかのクラスメイトたちと一緒に、男女入り交じったグループの輪に入って。ほんのちょっとのことでもお腹抱えて『おかしー!』って」


 前髪をいじる手が止まる。

 湖西をじっと見る。彼の瞳に特に邪気はなかった。

「わたし、そんなに陽キャじゃないよ、全然」

 間が持たなくてとりあえず口に入れたパンはなぜかもうパサパサで、コーヒーをすする。

 アルコールランプの炎がゆらりと揺れる。

 沈黙しかない。

「ごめん。勝手な想像」

「いいよ、別に」

「僕以外のみんなは高校で楽しく過ごしてるのかと」

「いいよ別に、そういうの。早く食べちゃおう? コーヒー飲んでるのに全然目が冴えたりしないね。おかしいね、すごく眠い……」


 ただいまぁとママが帰ってくる。手にはデパ地下の袋。

 閉店前で安くなってたのよ、とキッチンにそれを置いて、着替えてくると自室に向かう。

 ママの背中が暗い廊下に吸い取られていく。

 ――ねぇ家庭科で肉じゃが作ったの、今度、作っておこうか?

 ――いいわよ、そんなことさせたら「聡美さんは名璃子に夕飯の支度をさせてるの?」っておばあちゃんに怒られるもの。おばあちゃんが悪いんじゃないのよ? 共働きするって言った時、そういう約束したの。子供に迷惑かけないって。

 そうじゃない。

 わたしはもっとママを身近に感じたい。ママの娘だと強く感じたい。ママ……。


「心配だよね、いろんなひとのこと」

 無言でうなずく。

「でもその心配は明日に後回しにして今日はもう休んだらどうかな? 僕だって疲れたし、青山さんも疲れたでしょう」

 うなずく。上を向けない。

 やさしい声でそんなことを言われて、どんな顔をしたらいいのかわからない。

「僕さ、考えたんだけど――青山さん、保健室のベッド使ったらどう?」

「え? ああ、確かにふたつあるしちょうどいいね」

「いやいや僕は他のところで寝るよ。同じ部屋ってわけにはいかないでしょう?」


 想像してみる。

 保健室のベッドにはきちんとカーテンがかけてある。パーソナルスペースは守られる。

 わたしたちは今日、初めてお互いのことをよく知ったわけで、しかも水の中を歩いてきてとても疲れている。

 それ以上になにが?

「わかった。わかったからそんなに穴が開くほど見ないで。青山さんを無理に襲ったりしない。カーテンを閉めて、授業をサボった生徒たちみたいに眠ればいいよ」

「そうだよ、変な遠慮はいらないよ」

 その前にとりあえず、食事を終えなくちゃね。

 向かい合わせにした机の向こう側で、アルコールランプ越しの彼の笑顔もゆらりと揺れた。


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