5-(3)

 夜、保健室でもう寝ようとカーテンに手をかけると綾乃から声がかかった。

「名璃子、約束してたじゃん。髪、揃えてあげる」

 保健室の窓からは煌々と明るい月が今夜は出ていて、これなら明日は晴れるな、という空の色だった。藍色の闇に白い光が眩しい。

「え、明日でいいよ。昼間で」

「こういうのは女子ふたりっきりの時間にやりたいじゃん? 裁ちはさみも持ってきてあるの、ほら」

 綾乃の手の中にはわたしが髪を切ったのと同じ、家庭科の裁ち鋏があった。鈍色に光っている。


 ほら、と言われて断るのも悪いし、窓の方を向いて背中を綾乃に向ける。綾乃の指が髪に触れるのを感じる。鋏の気配も。

「バラバラになった髪の毛が落ちたら困らない?」

「大丈夫、箒とちりとりも持ってきてあるの。わたしがやるから」

 そう、とわたしが答えた時、ひんやりした鋏が首筋に一瞬触れてドキッとする。大きな鋏を思い浮かべる。


「どうしてこんなにしちゃったの? わたし、褒めたじゃない。名璃子の長い髪がうらやましいって」

「褒めてくれてありがとう。でも、ここでの生活には不向きだと思ったから」

 ジャキ、と言って最初の鋏は入れられた。

 肩につくくらいの髪なので、耳元に鋏の音がよく響く。

 ジャキ。

「不向きってどんなふうに? 例えば」

「乾かすのが大変だし、洗うのに貴重な水がみんなより必要なのも困るし、ほら、シャンプーなんかも無限なわけじゃないしさ」

 ジャキ。

「そうだね、そうかもしれない。でもそれは実用性の話でしょう? それ以外は?」

「それ以外ってどんなの?」

 ジャキ。


 髪に触れる綾乃の指が離れた。

 髪はまだ首の後ろくらいまでしか切れていない。ちょっと待つ。

「どんな? 例えば……佳祐も湖西くんも名璃子の長い髪が必要だったんじゃない? その髪が、さらに名璃子の魅力を際立たせてたんじゃない? 簡単に切っちゃいけなかったんじゃない?」


「誰か!!」

 わたしは素足のままベッドを飛び降りた。そうして保健室の扉を開けると大きな声で何度も叫んだ。

「誰か! 誰か来て! お願い!」

 どこかからドアの開く音が聞こえて、誰かが来てくれることがわかった。

 わたしは取って返して号泣する綾乃の右手から裁ち鋏を取り上げると、手の届かないところへやった。

 保健室のどこになにがあるのか全然思い出せない。とりあえずを止めなきゃいけない。


「名璃子ちゃん、どうした?」

 一番に来たのは拓己さんだった。

「ごめんなさぁい……」

 綾乃は幼稚園生のような声を出して泣いた。そう言えば小さい時もそうやってよく泣いていた気がする。

「ごめんなさぁい……わたし……」

「名璃子ちゃん、ちょっとどいてて。綾乃ちゃん、切ったところ洗うよ。名璃子ちゃん、水は?」

「ここに飲みかけなら」

 貸して、と言って拓己さんは洗面台の上に綾乃の手を引っ張り上げ、水をかけた。

「清潔なタオルかガーゼも」

 タオルを渡すと、傷口をそれで押さえつけた。


「ごめんなさぁい……こんなこと……ダメなのに……わたし、もう」

「名璃子ちゃん、消毒するから薬取って。それからサランラップと、見つかるならワセリンちょうだい。あと包帯」

 わたしの頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 鋏を持つ手が止まった時、振り向くとそこには血塗られた裁ち鋏を右手に持った綾乃がいた。

 綾乃が切ったのは、自分の手首だった――。


「なに?」

 次に駆けつけたのは佳祐だった。拓己さんは事情も話さずに、調理室に佳祐を走らせた。

 遅れてきたパパと湖西にはワセリンと包帯を探すように言った。

「ラップ、持ってきた」

「よし、お前は名璃子ちゃん連れてどこか落ち着くとこに行って」

「え? 名璃子?」

「いいから早くしろよ!」

 拓己さんは声を荒らげた。

 訳もわからないまま佳祐はわたしの肩に手をかけ「おいで」と言った。差し出されたその大きな手をわたしは掴んだ。


 行こう、と夜の中、電灯も持たずに廊下を早足で歩く。佳祐の上履きのゴム底がキュッと音を立てる。

 普段入ることのない職員室に入る。そこから佳祐がいつも寝ているらしい校長室に入った。

「慌ててたから電灯置いてきちゃって失敗したな。名璃子、どうした? お前、震えて……」

 わたしは綾乃から鋏を取り上げた時に手についた赤い血を、見ていた。

 綾乃が自慢していた細い手首、小さい体によく似合うあの手首に傷がついた……。


「触らないで」

「名璃子?」

「やっぱり間違ってる。わたしは間違えたの。佳祐と綾乃、どちらかを選ぶなんてできない。もうダメだよ――」

「……名璃子? それは名璃子の間違いだ。選んだのはオレで、名璃子にはなんの責任もない。お前がオレを誘惑したわけじゃない。オレが勝手にお前をすきになったんだ。そうだろう?」

「わかんない、おんなじことだよ、だってわたしは」

 佳祐の手が無理にわたしの両手首を掴んだ。その目が怖くてギュッと目を瞑る。なにも見えない。見たくない。


「綾乃になにかあった?」

 目を開けることができない。やましすぎる。

「綾乃、鋏で手首を切ったんだよ。わたしのせいだよ」

 さすがに佳祐も驚いたのか、わたしの手を掴んだまま、動けずにいた。

「……綾乃、大丈夫なのか?」

「わかんないよ。怖くてよく見えなかったし。拓己さんがすぐ来てくれて、応急処置をしてくれてるみたいだったけど」

 ふう、と佳祐は息を吐いてわたしの手首を握る手の強さが少し緩んだ。


「大丈夫だと思ったからオレたちにどこかに行けって言ったんだよ。大丈夫だ、拓己さんがいれば。オレも看病してもらったから」

「本当に?」

「本当に」

 ゆっくり目を開けると、傷ついた目をした佳祐の顔が目に入った。わたしの目から涙がこぼれるのと、佳祐がわたしを抱き寄せたのはほぼ同時だった。

「給湯室に行ってとにかく手を洗おう?」と佳祐はわたしを連れて真っ暗な給湯室でペットボトルの水を使って手を洗ってくれる。綾乃の血が、わたしと、佳祐にも付く。

 そんなもので繋がっていたいわけじゃなかったのに。


「綾乃のケガはきっと拓己さんが上手くやってくれる。それは信じていいと思う。付き合いは短いけど、あのひとは信頼のできるひとだよ」

 うん、と声を出さずに頷いた。

「綾乃には悪いことをしたと思ってる。でもそれと、名璃子のことは別だ。オレは最低だよ。お前の手についている血を見た時、お前がケガをしたのかと思って、そうじゃないと気がついた時には『よかった』と思ったんだ。名璃子が傷つかなくてよかったって――。でも名璃子が傷つかなくてよかった、本当によかった」


 なんとも言えなかった。

 自分のすきなひとが安全なら、ほかのひとが傷ついても『よかった』と、ひとは思えるのかと。

 佳祐が大丈夫なら、ほかのひとのことは傷ついてもいいと自分も思う時が来るんだろうか?

 もしもそれが『恋』か『恋じゃないか』の境目だとしたら、わたしはまだ境界線に立っている。なにもかも捨てて佳祐を選ぶことは難しく思えた。


「……悪いのはオレだよ。名璃子、嫌いにならないで」

 ならないよ、嫌いなのは『わたし』。

 こうなっても佳祐の腕の中にいるわたし。

 綾乃を傷つけた悲しみを、佳祐の腕の中で癒そうとしてる……そんな卑しいわたし。

 そんなわたしたちのすべてを月は銀色に輝いて眺めていた。

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