5-(2)

 音楽室に行く気にはとてもなれなくて席から離れずにいると、湖西が近づいてきた。

 拓己さんと佳祐はまだ作業の続きがあって、食事の支度をするには時間があった。


「指がなまったんじゃない? 一日弾かないと取り戻すのに三日かかるって僕の先生は言ってたよ」

 音楽室に行かない、という選択肢があるはずだった。だけどわたしの口は「そう思う」と同意して、席を立った。

 湖西が手を出すと、わたしは当たり前のことのように彼の手を握った。

「ちゃんと信号をくれてうれしかったよ。名璃子ちゃんが戻ってこないんじゃないかって心配してたから」

「そんなことないよ。戻るよ、ここに」

「そう、に。約束したもんね」


 音楽室の厚い防音の扉を開けると見慣れたグランドピアノがわたしを待っていた。まるで「お帰り」と言っているように、鈍く光っていた。

 湖西が蓋を注意深く開けて、わたしをイスに座らせる。わたしはとりあえず指の練習をする。規則正しく指を動かす。指は滞ることなく一本一本が正しくその仕事をした。

「いいね。じゃあ弾いてみて」

 あの日のように促されて『エリーゼのために』を弾く。久しぶりに聴くピアノの音は繊細な弦の音が響いて、胸がじんとする。

 ミ♯レミ♯レミ♯レミ♯レミシ……

 両腕が鍵盤の上で固まる。置いた指は鍵盤を押さない。

「どうしたの?」

「……綾乃にも教えてあげたらいいのにって思ったの。湖西くんのピアノのファンでしょう?」

「渡辺さんは弾くひとじゃないよ。世の中には二種類の人間がいる。弾く人間と、弾かない人間」

 湖西は右手の人差し指と中指を立てた。そこにわたしは手を持っていって、湖西の倒れたままだった親指を起こした。

「違うよ、まだいるでしょう? 弾くことを辞めた人間。それがわたし。ピアノは弾けば楽しいけど、毎日をかけて続けていくものじゃないってわたしは切り捨てたの。ごめんなさい、湖西くんにとって大切なピアノをこんなふうに言ってしまって。でもわたし、毎日の練習は必要ないみたい。人生にはこんな時でも楽しいことはほかにもあって、みんなの楽しいことがそれぞれ違ってもいいんじゃないかな」

「それは誰かの受け売り?」

「ううん。影響は受けたかもしれないけど。でも人生の時間は限られているから、振り返った時に後悔したくないの」


「だな」

 いつの間にか重いはずの扉を音もなく開けて、拓己さんがそこにいた。拓己さんは入ってすぐの壁にもたれて話し始めた。

「なあ昇、名璃子ちゃんを縛っておかなくてもいいんじゃないの?」

 突然の出来事に湖西の顔色が変わった。音楽室さえ彼に背を向けたような気がした。

「名璃子ちゃんは確かにかわいいし、ライバルもいる。お前の気持ちもわからなくない。でも縛りつけたら逃げたくなるのが人間だよ。縛ったっていつかは紐が解ける。お姫様にかかった呪いも王子様のキスで解けるようにな」

 湖西の指がピアノをなぞった。ツツツ……と指紋が後を引く。いつも湖西が丹念に磨き上げているピアノに白いあとが残る。

「なんのことかな? 確かに僕は名璃子ちゃんがすきだけど、縛りつけてなんておけないのはわかってるよ。現に昨日もちゃんと送り出したでしょう? 名璃子ちゃんだってリフレッシュが必要だし。その、ビルが崩れたっていうのは同情するけど、名璃子ちゃんにケガがなくてよかった。タク兄に任せてよかったって思ってるよ」


「ところで名璃子ちゃんのこと、いつから知ってた?」

 湖西は顔を上げた。そうしてわたしを見て、拓己さんを見た。答えが怖かった。

「入学した時だよ。名璃子ちゃんはいちばん前の席だったんだ。ね? そうだよね?」

「席は出席番号順で、出席番号は五十音順なんです。わたしは『青山』だから出席番号一番で」

「僕は一目見て名璃子ちゃんを忘れられなくなったんだ。すごく印象的だったから。タク兄だって同じ男なんだからそういうの、わかるでしょう?」

 拓己さんはしらっとそう答えた湖西のところに詰め寄った。


 ガタンといつもはこの部屋では立たない物騒な音がして、湖西は立ち上がると拓己さんに掴みかかって壁に押さえつけた。

「どういうつもり?」

「お前だってどういうつもりだよ? 名璃子ちゃんには待ってるお母さんだっているんだ。どうやってるのかわからないけど解放してやれよ」

「へえ? それじゃまるで僕が糸を引いてるみたいじゃない? 僕は超能力者か魔法使いってわけ?」

「理屈なんか知らねえよ。ただ、名璃子ちゃんを、自由に……」

 湖西が手を離すと拓己さんはひどく咳き込んだ。シャツの襟元が伸びていた。

「ねえ、タク兄。こんなに水深が浅いのにビルや線路が溶けるように沈んでいくのって不思議だと思わない? もしもこの水の中に誰かを落としたらどうなるか……。つまらない話はやめて、ふたりで窪田くんのバスケでも見に行けば?」


 ドアを出てから拓己さんに「大丈夫ですか?」と聞いた。咳は止まらず、苦しそうだった。

「昇に脅されるとはな」

「あの」

 ちょっとやそっとじゃひとには話せないことだった。でもいまが話す時だと思った。心を決めて口を開く。

「あの……拓己さんが来た前の日、濃霧の中、わたし、水に沈んだんです。その、死のうと思って。でもできませんでした。水深が浅すぎて、苦しくなると体が勝手に水から顔を上げてしまって。……だから、さっきのは脅しだと思います。ここの水に飛び込んだって死んだりできないんです」


 骨ばった拓己さんの手がわたしの頭を引き寄せた。拓己さんの鎖骨がおでこに当たった。

「泣いたっていいんだ。泣くことは精神の自浄作用になる。でも希望を失ったらダメだ。絶望は喜んで君を死に引きずり込むから」

 はい、と小さく答えた。

 ここに来て泣くのは何度目だろう? 人生の理不尽さにはもう慣れたつもりでいたのに、まだまだだった。

「とりあえず佳祐の手を離したらいけないよ。例えそれがどんな時でも。あいつは根性決めて名璃子ちゃんを守るってもう決意したんだ。ちょっとやそっとじゃ君の手を離さない。だから君から離したらダメだ。諦めるな。――この前少し話したけど、俺にも助けたい女がいる。いつまでも閉じ込められているわけにいかないし、早く見つけたい。でもその前に、自分が生きていないとなにもできないんだ。いい? わかるね? それを忘れないで」

 先に行きな、と軽く背中を押されて階段を下りる。それから迷って踊り場で振り向くと、拓己さんは手を振った。

「またあとでね」と。



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