5-(1)

 島は――不思議なくらい近かった。

 微かな追い風が吹き、波は穏やか、今度は揺れも少なくて酔うこともなくて。

 ボートが島に着くと、佳祐が手を引いてゆっくり下ろしてくれる。ありがとう、と小さく言った。


 荷降ろしを始めると坂の上からスニーカーがコンクリートを蹴る音が次第に近づいて、綾乃が元気そうにわたしに飛びついてハグをした。

「うわっ」

「名璃子! シャンプーのいい匂い。もう少しゆっくりしてきても良かったんだよ。居心地よかったでしょう?」

 わたしたち三人は目を合わせた。

「その話は学校でゆっくりするよ」

 わたしは綾乃に曖昧な笑顔を作った。綾乃は不審な顔をした。


 ゆっくりとパパと湖西が現れた。湖西を見た時、怖いという気持ちが先立ったけど、湖西はゆっくり微笑んだ。

「娘を旅に出すというのはあまりいい気持ちじゃないね」

「おっさん、なに父親ぶってんだよ」

 拓己さんは豪快に笑った。パパもそれに合わせて愉快そうに笑った。

「拓己が一緒っていうのが名璃子にとっていちばんの危険だと思ってたんだよ」

「なんだよ、それ。危ないのは俺じゃないだろう?」

「いえ、オレは」

「わたし、行きに船酔いしちゃって佳祐に助けてもらったんだよ」

 パパは一段とにこやかな顔をした。そして、それは世話になったね、と佳祐に握手を求めた。佳祐は手こそ出したものの、どんなふうにパパに接していいのかわからないようだった。


 それはそうだ。わたしはパパのことについて辛いことしか彼に話していなかったから、混乱するのは当たり前だ。

 どういうわけか、パパが家族を大切に思っているということが見えてきた。あの女のひととなにかあったのか、さもなければ単に歳をとっただけなのかはわからないけれど。少なくともという実感はあった。


「本当はもう一往復くらいしたいものだけど、今日はやめておくか。まるで『近くて遠い』だな」

 あと何度訪ねたらあのビルは崩壊してしまうんだろう? できる限り、使えそうなものは持ってきたけれど。

「そうだね、今日は休んだ方がいいよ。ここにいれば危ないこともないから」

 湖西がわたしの顔を見てにこっと笑った。そして荷物の分担が終わると「さあ、行こう」と言った。

 まるで始まりの日に戻ったみたいに。


「やっぱり名璃子は頭いいよね。冬物まで持ってくるなんて」

「売れ残りのバーゲン品だからかわいいの少ないよ」

 真冬にここにいることなんて考えるのも嫌だったけど、何事も前もって準備をしたい性分だ。持てるだけのものを持ってきておいてよかった。あんなことになるなら……。

「でも普通思いつかないって。だってまだ初夏だもん。綾乃の頭の中にはノースリーブとブラトップとワンピースとショートパンツしかない」

「Tシャツは?」

「こんな時じゃなきゃ普通のTシャツは着ないの。男の子みたいじゃん。綾乃はフリルが付いてたり、花柄だったりするのがすき」

 なるほど。

 わたしの持ってきた服は実用第一で綾乃の趣味には合わないかもしれない。でもこれが最後のGUの服だ……。


「どうしたの?」

「なんでもない。綾乃の気に入る服があるといいなって思ってただけ」

 そっか、なんでもいいんだよ、と綾乃はまるでなにもなかった頃のように言った。今日は久しぶりのツインテールを揺らして少し焼けた肌が白いTシャツを眩しく見せていた。

 わたしたちの間にもうわだかまりがないのかと言えば、そんなはずはなくて、並んで歩いていてもふたりの間の空気には紙ヤスリのような摩擦感があった。

 すぐにすべてが上手く回るはずがない――それが物事の道理だ。


 そう考えると、わたしと佳祐がなんの問題もなく並んで歩ける日が来るのは遠い気がした。

『近くて遠い』、まさにその通りでもどかしくもあり、歯がゆくもあった。


 みんなはいつも通り教室に集まった。少し休憩してからでもいいんじゃないかという声もあったけれど、拓己さんが「早いうちに」とみんなを急がせた。

 気が重い。

 なにが真実なんだとしても、ここには安住の土地はないんじゃないかと感じた。


 立ち上がった拓己さんが話し始める。

「俺たちは駅に行ってきたわけなんだけど。前に話した通り、ホームの両端は溶けていて、駅ビルの二階は半分沈んでた。幸いホームと駅ビルの連絡通路は三階にあるから行き来ができるわけだけど、とにかく着いた時にはこの前となにも変わりはなかったよ」

 美味しいもの食べた? と綾乃は笑った。

「行きに名璃子ちゃんが船酔いしちゃってね、行動時間に少し制限がかかったけど大したことなくてよかったよ。名璃子ちゃんも昨日は久しぶりのやわらかいベッドでよく眠れたんじゃないかな?」

 ありがとうございます、とわたしは言った。


「さて、ここまでは良かったんだ。名璃子ちゃんのためにも数日いてもいいかなと最初から思ってたしね。名璃子ちゃんもたまには違う空気を吸った方がいいからさ。それがそういうわけにも行かなくなって、朝食を取って、さあこれからって時に大きな物音がしたんだ――」

 その先のことをかいつまんで拓己さんは語った。駅にずっといたパパは苦い顔をした。湖西の顔色は変わらなかった。


「じゃあ早いうちに必要なものをこっちに運んだ方がいいね。名璃子ちゃんみたいに長いスパンで使うものを考えるのもいいかもしれない。少なくともニトリと無印はあるわけでしょう? 今度は僕も行くよ」

 綾乃以外の全員が信じられない気持ちで湖西を見た。湖西は感じ良く笑った。

「やだな。僕だって僕の欲しいものがあるし、潜水してでも二階にも行きたかったな。無印だけで揃えたらみんなユニフォームみたいになるでしょう?」

「湖西くん、三階はちょっとしたブランド物のお洋服もあったよ」

「そうなんだ。恥ずかしながら僕はほとんど家の周りしか出歩かないから改修してからの駅ビルには行ったことがないんだ。フロアは広いんだね?」

「広いよ。湖西くんもさ、たまにはピアノだけじゃなくてショッピング、楽しもうよ。綾乃、見立ててあげる」


 ふたりが楽しそうに話すのを拓己さんは黙って見ていた。湖西の真意を測りかねているのかもしれない。

「それもいいかもな。なんなら筏ふたつ出してもいいし」

「一日に二往復できる距離だよな」

「三往復だって行けるんじゃなぁい?」

 みんなが話し合っている間、わたしとパパは黙っていた。パパがどうしてなにも言わないのかわからない。わたしは『もしも』のことばかり考えていた。

 確かに物資は少しでも必要だけど、それにしてもうかつに近寄っていいのか。

 あのビルは危ない。

 荷物を取りに行くだけならまだしも、もう一泊しろと言われたら考えてしまう。それが親切心から勧められたのだとしても。

「どっちにしてもここでは天候が事を左右するからな。明日の朝を待とう」

 解散、と拓己さんは言ってみんな思い思いの所へ出て行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る