4-(5)

 おかしな話だけど、拓己さんは寝る前にわたしたちにひとつの約束をさせた。それは『同じベッドで寝ないこと』。毛頭そんなつもりはなくて、かえって顔が赤くなってしまった。

 でもいざ寝る段になると、佳祐は「寝るまで顔を見ていたい」と言った。それはわたしひとりが恥ずかしいので止めてもらった。

 代わりに彼はわたしの寝るベッドにほど近いソファーで寝ると言った。

「体が休まらないよ」と言うと「どっちみち休まらないよ」と答えた。

 ドキドキして眠れそうにないシチュエーションの中、わたしはどんどん水の中に沈んでいくように深い眠りに落ちていった……。


 ――ズシーンッ、という重い音がしたのは朝食の時だった。

 拓己さんの作ってくれたチーズトーストを食べていた。本当はフレンチトーストでも出したいところだけど、とよく休めたのか拓己さんは笑っていた。

 その時音がして、拓己さんはわたしたちに待っているように言い、店を出て行った。震動がまだ足元に残っているように感じた。

 悪い予感しかしないわたしに佳祐は「前にもあったんだよ。GU、今度こそ沈んだかな」と言った。その言葉に驚いたわたしは声が出なくなった。

「だからさ、あんなこと言ってきたけど、実はここがいつまで保つのか謎なんだ。沈んでいくのも不定期だし。まだしばらくは大丈夫だと踏んでたんだけどな。ここにいる間は向こうのことは忘れよう。文化的な生活をいまのうちに楽しもう」

 わたしの不安を拭い去るように佳祐は笑った。

 その時もう一度同じ音が鳴って、さすがに緊張して席を立った。


「拓己さん!」

「おー、驚いた。俺とおっさんだけの時にはこんなことなかったんだけどね。こんなに速いスピードで沈むはずがないと思ってたんだけど、二階はもうダメだね。あとでホームも見に行ってみよう。しっかり食べておけよ」

 それはいい報せではなかった。

 せっかくの楽しい気持ちが台無しになった。

 恐る恐るエスカレーターを覗く……。

 GUの、キレイにたたまれて並べられた服は不思議なことにそのまま浮かぶことなく沈んでいた。

 エスカレーターの隙間から覗いた一階は、あたかも最初からなかったかのように侵食されて……。

 外の水位はそれほど深いわけではないのにこのビルは足元からここまで沈んでいる。それは奇妙な事だった。ビルに水が入ったというわけではなく、明らかに沈んでいるんだ。

 常識的なことではなかった。

「いよいよここも安全とは言えなくなってきたな。荷物を運ぼう。先々のことも考えて選ぶんだ」


 今朝の水位はまた膝丈に戻っていた。わたしは両脇が溶けているホームから鏡で合図を送った。

 わたしと彼の決めた信号は、ツー・ツー・ツー。

 いよいよ危なくなった時にはいつも通りの救難信号を使うことになっていた。いまはまだ助けを呼ぶほどではない。

 ふたりが荷物を運んでいる合間に信号を送る。

 すぐに同じ信号が返ってきた。

 あたかも、『いますぐ戻れ』と言わんばかりに。

 耳の奥にショパンが響く。何度も何度も繰り返し聴いたショパン。

 すぐに信号が返ってきたところを見ると、彼はいつも通り、あの場所でピアノを弾いている。

「帰っておいで」と弾いている。


「名璃子、ぼーっとしてどうした?」

「帰る時に合図をする約束だったから」と手鏡を見せた。ああ、と佳祐は言った。

「どこか、ここでもあそこでもないどこかにオレたちの居場所はないかな。名璃子を学校に戻したくないよ」

 痛いっ、と佳祐が言ったのは拓己さんが後ろから小突いたせいだ。

「生きてるだけマシだろ? そういうのは次のステップ。まずは帰って、そこからだ。――昇と話さないわけにはいかないな」

「それはどういう……」

「事の発端は昇と名璃子ちゃんだ。そこからほかの出来事が発生してる。昇の思った通りにはならないことが多いようだな。君たちふたりに関係のない人物が四人もいるわけだ。昇がなににどんなふうに関わっているのか知らないといけない。悪魔とでも契約したのか? この規模の災害を起こすなら、ずいぶん位の高い悪魔だろうな」

「そんなことって……どうしてわたし?」

「それはわかんないなぁ。一目惚れだったのか。それともどこかで君をよく知っていたのか」


 ゾクッとした。

 知らないところで湖西はわたしを知っていた。それはたぶん入学した時のことではなくて、それ以外のなにかで、だ。

 わたしの生活の中に、本当は湖西が潜んでいたんだ。そう考えた方が『一目惚れ』よりずっと説得力があった。


 だとすると、あの不自然だったしおさい公園での出会いは仕組まれたものだったのかもしれない。

 一度しか見たことのないわたしの名を呼んで、迷うことなく走ってきた彼。

 そうじゃない、彼はわたしをよく知ってたんだ。


 拓己さんは持っていた荷物をホームに下ろすと自分もイスに座った。そうして重い口を開いた。

「あいつ、小さい時からガチガチに詰め込まれて育ってるんだ。許されてるのはピアノだけ。嗜み程度に習わせたのがめきめき上達してさ、あいつだって音楽科のある高校に行きたかったんじゃないかなぁ」

「……ピアノしかないって」

「あいつにしてみたら、あの高校自体が存在の不確かな幽霊みたいなものだよ。俺みたいに自由に育ってないからなにも意見を言えないんだ。夏休みに遊びに行くと、俺が誘えば外に遊びに出られた。古い家だから世間体も大切だろう? 変な噂が立たないように、まるでいつもそうしているかのように昇に帽子を被せて、必要なら虫取り網でも釣り竿でも持たせたよ。昇は夏休みでもいつだって日焼けなんかしてなかったよ」


「で、俺が高校に入った時にあいつ、言ったんだ。『高校に入ったらその先にはなにがあるの?』って。俺は上手く答えてやれなかったよ……。まさかこんなに物事が拗れるとも思ってなかったしな」

 なにも言えなかった。

 あの高校に囚われているのはわたしじゃなくて最初から湖西だったんだ。

 彼をあの場所から自由に解き放ってあげればなにかが変わる?

「名璃子ちゃん、変なこと考えてる? いい、これは俺たちみんなのミッションだ。抜けがけはなし。もし名璃子ちゃんを盾にとるようなことがあったら」

「オレがそんなことさせない。名璃子はヤツに渡さない。名璃子は願いを叶えるアイテムじゃないんだ」

 でももしそれでみんなが救われるなら――わたしは佳祐の手さえ離すだろう。

 大切なひと、みんなを守るために。


「これはあくまで仮定の話。聞かなかったことにしておけよ。もし昇になにかあるなら、俺が血縁者としてなんとかする。だけど昇だってやっぱりなにも知らなくて、困って毎日ピアノを弾いてるのかもしれない。そうだろう?」

 なんとも言えない気持ちのまま、ボートに乗り込んだ。今度は船酔いしないように佳祐がずっと抱えてくれた。

 あの島に着くまでは――わたしは佳祐のお姫様でいられる。あの島に着くまでは。

 急かすように音楽室の窓からまた光が放たれた。

 逃げたりしないし、逃げようもないのに。

 それは湖西がいちばんよく知ってるのに。

 わたしはたぶん、湖西から離れることができない。


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