3-(5)

 坂道を上っていると、不意にひとの気配を感じた。

 そんなことない。猫?

 でもあの日以来、猫さえ見ていない。

 振り返って原因を探る。湖西が「どうしたの?」と訊ねた。「なんでもない、気のせい」と正面を向こうとした時、さらりと揺れた髪の毛の隙間に――。


「佳祐!」


 走った。足がもつれそうになりながら、一生懸命走った。佳祐は「名璃子!」と言ってわたしの方へ走ってくる。

 ああ、なんで信じなかったんだろう? わたしをいつも守ってくれるのは彼しかいないのに。

「なんだよお前、髪の毛短くなって」

「そういう気分だったんだよ」

 いま、わたしは佳祐の腕の中にいる。その体の、女の子とは違う関節の節々を感じる。ぎゅっと抱きしめられてわたしも強く抱きしめかえした。

「遅くなってごめん。心配しただろう? そんなつもりじゃなかったんだ」

「大丈夫だよ、大丈夫。無事に帰ってきてくれたなら」


「名璃子ちゃん、ごめんね」

 知らない声に振り向く。

 そこにはまったく見知らぬ男性がいた。彼はしっかりした足取りでこちらへ向かって歩いてくる。よく日焼けした顔の眼鏡の下にある瞳は、知ってるひとによく似ていた。

「……タク兄。タク兄がどうしてここに?」

「どうしてってお前、俺の方が聞きたいよ。どうなっちゃってんだ、これ。でもまぁ、お前が無事で安心した。佳祐くんに聞いてたけどな。あ、噂の名璃子ちゃん! 俺は湖西拓己こにしたくみ、昇の従兄弟なんだ。駅前の大学の三回生。今年で二十一だ。よろしく」

 よろしくお願いします、と言う声には戸惑いの色を隠せなかった。


「できるだけ早くふたりを返してあげたかったんだけどね、佳祐くん、ちっとも言うこと聞かないで無理ばっかりするし。治るもんも治らないっつーの」

「がーっ! 拓己さん、そういう言い方やめてよ」

「やめないね。『名璃子が……、名璃子が……』ってさ。若いっていいね」

 頬がかぁっと赤くなる。

 嘘、心配されてたんだ。


「名璃子……ごめん」

 拓己さんの影に隠れるように小さな綾乃は小さくなって言った。

「なにも綾乃は謝ることしてないでしょ?」

「ううん、名璃子になにも言わないで無理やりついていったの。ごめん、置いていっちゃってごめん」

 ぽん、と拓己さんは綾乃の頭の上に手を乗せた。その下で綾乃はぽろぽろ泣いた。

「あんな紙切れ一枚じゃ、納得できなかったでしょう?」

「……綾乃が無事でよかったよ、ほんとに」

 綾乃は拓己さんの袖を掴んでなにも言わなくなった。


 頃合いを見て拓己さんが言いにくそうに話し始めた。

「名璃子ちゃん、落ち着いて聞いてほしいんだ。大事なことを話すよ」

 見当がつかない。

 佳祐が心配そうにわたしを見つめて「大丈夫、オレがいるから」と言った。ますます訳がわからなくなっていると、坂下の木陰に立っていた、よく見えなかったスーツ姿の男性が、ゆらっと顔を出す。

「名璃子」

「……パパ、どうして?」

 パパは悲しそうな顔をして俯いた。わたしの顔を見ようとしない。佳祐の腕に力が入る。


「とりあえず、オレたちの基地に案内しよう。大したとこじゃないけどさ」

 お菓子と、いくつかの種を入れたカゴを提げて湖西はなにも言わなかった。さっきは拓己さんとは仲がいいのかと思えたのに、そうでもないのかもしれない。

 佳祐はわたしの手を強く握って離さなかった。罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。

「なのかもしれない」がいっぱいで、なにもわからなかった。


「おお、懐かしの我が母校! ……なんてな、別に懐かしくもなんともないけどさ。まさかこんなふうに来ることになるとは思わなかったよ」

「拓己さん、ここの卒業生なんですか?」

「そうだよ。大していい思い出はないけどね」

 そう言って道みち、高校時代の話をしてくれた。驚くべきことに拓己さんは野鳥観察同好会のOBだった。

「俺は基本的にアウトドアな人間なわけよ。いまでもたまに顔出すよ。高校生はさ、ペットボトル二本とポテチで喜ぶから安上がりだよな。干潟がなくてもヤツらはコーラとポテチで喜ぶよ」

 ははっ、と大きな口を開けて笑った。


 湖西と拓己さんは似ているようでまるで別人だった。拓己さんは湖西からピアノを取って、思いっきり快活にした感じに見えた。

 短髪で焼けた肌にはTシャツとパーカー。膝までのデニムパンツとランニングシューズ。フットワーク軽めなタイプに思えた。

「なるほど、防災倉庫かぁ。なかなかやるな、昇」

 とりあえず教室に行って、思い思いの席に着いた。その場をリードしたのは拓己さんで、ほかの人になかなか口を挟ませなかった。

 湖西はというと、拓己さんにはたじたじで自分からはなにも言わない。昨日までのある意味頼りがいのある湖西ではなかった。

 いまは大勢の中のひとり、という感じだ。


「こっちはさ、駅ビルが足元やられてて電車のホームはあるけど電車は当然やって来ない。それから――」

 拓己さんは言い淀んだ。

「駅ビルは電気もガスも水道も普通に使えるんだよ。なんでそこが違うんだろうな? だから昇たちふたりにも早く来てほしかったんだけどそういう時は大抵、アクシデントが起こる。例えば昨日みたいに濃霧だったり。佳祐くん、雨が降り始めた時からずっと風邪気味だったんだって? ずいぶん無理したっていうのは俺が吐かせたんだけどさ。向こうでまた発熱しちゃってね」

 佳祐も綾乃も下を向いた。よく見ると綾乃の手が小刻みに震えていた。

「こういう状況だからひとりくらい体調を崩すさ。駅ビルには幸い、君たちも知ってる通り大きなドラッグストアもあるし、佳祐くんにはニトリのベッドで寝てもらったよ。ふかふかだっただろう?」

 佳祐は口元だけ笑って返事をして見せた。

 看病してもらったのがはずかしかったのかもしれない。目が合うと恥ずかしそうに目を伏せた。


「それでね、話を聞いたら駅の方が快適そうだから移ってきてもらおうかと思ったんだけど、そんな訳ですぐに出られなくてね。もっとも当の本人は『名璃子が待ってるから』って何度も逃走しようとしたけど。熱が下がれば下がったで天候も悪かったし、霧が深かったしねぇ」

 そこまで話して拓己さんはくくっと意地の悪い笑い方をした。

「だからさっき思ったわけ。ああ、この子が名璃子ちゃんなんだって。なるほど、って納得したよ。それからついでに話すとこのひとはどうも名璃子ちゃんのお父さんらしいね、合ってる?」

 こくん、と頷く。でも当の本人は窓の外を眺めるばかりで、その横顔は憔悴していた。パパのあんな顔を見たことがない。パパは会う度、いつでも笑顔だったから。


「お父さんもこれがまた頑固で名璃子ちゃんに会わせる顔がないってさ。毎日じっとホームから学校を見てたよ。鏡で信号を送ってたのは俺だけど、返事をいつも待ってたのはおっさん……名璃子ちゃんのお父さん」

「拓己さん、ありがとうございます。父を連れてきてくれて」

「こういうのは乗りかかった船って言うんだよ。気にするな。まぁとにかく、向こうに行けばライフラインは確保されてる。食料の備蓄は倉庫には負けてるかもしれないけどな」

「食事、どうしてるんですか?」

「四階がレストラン街だから。適当にあるものをいただいてる。駅ビルは便利だよ。建て直したばかりのことはあるね。名璃子ちゃんのすきそうな服もたくさんあるよ。それから、バスタブはないけどお湯もすきに使えるから。ここと向こうを合わせたらなかなか居心地が良くなりそうじゃない?」


 ガタン!

 不意にイスは倒れた。

 湖西が急に立ち上がったからだ。

「僕は賛成しかねる。大体まだ僕たちはそっちの状況を見ていない。食べ物の備蓄だって確保されてないんじゃない?」

「だからそこをさ。昇は相変わらず真面目だな」

「茶化さないで。僕は名璃子ちゃんを危ないところにやりたくはないんだ」

 拓己さんはひとつ口笛を吹いた。

 そして湖西を冷やかすようにこう言った。

「お前ひとりで女の子を守れるほど、お前は大人なのか?」

 湖西は倒れたイスに座ることもなく、教室を出ていってしまった。

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