3-(6)
「湖西くん!」
湖西くんはイスを跳ね飛ばしそうな勢いで立ち上がると大股で教室を出ていった。
立ち上がったわたしを拓己さんは引き止めた。そうしてまた座るように促した。
「放っておいてやって。さて、俺の話はこれくらい。おっさん、挨拶くらいしたら? やっと会えたんでしょう?」
パパはゆっくりこっちを見ると体をみんなのいる方向に向けた。いつもと違い目は虚ろで、ダンディーなはずのその顔はやつれてその面影を薄めていた。
「みんなには挨拶はしたから省略させてもらう。……名璃子、ママは? 一緒じゃないのか?」
「ママはまだ会社にいる時間だったから」
「そんなことは関係ない。実際私は会社にいたはずなのに、気がついたら駅のホームにいたんだ」
「俺も研究室にいたよ。なにかがガーンってなって、目を開けたらやっぱり駅のホームだった。しかも線路が溶けるように水の中に沈んでいて、電車は永遠に来そうに見えなかったよ」
ふう、とパパは息をついた。
いつからパパはこんなに歳をとったんだろう? 第一パパには違う女のひとがいるのに、なんでママの安否をそんなに心配するんだろう?
「ママと名璃子は一緒にいるはずだと思っていた。わたしには帰る権利のない家のある駅のホームで、永久に来るようには思えない電車を待つべきか、それとも名璃子たちを水の中で立ち往生してでも探すべきか迷ったんだよ……。そう、迷うだけだったんだ」
もういいだろう、と拓己さんは話を遮った。そしてとりあえず食事の支度でもしようと案を出した。
わたしにもそれは妥当に思えた。なぜならわたしはパパの心の中を思いやってあげるにはまだまだ成長が足りないと思ったからだ。
パパがママを心配する気持ちはわからない。だってママを捨てて悲しませたのはパパなんだから。
調理室で玉ねぎの皮を剥いていると湖西が現れた。ほかのみんなはそれぞれボートから降りた時に濡れたようで、身支度を調えているようだった。
「……ごめん。タク兄はズバズバ言うから傷つくこと言われなかった?」
「大丈夫。やさしいひとだよね、湖西くんの従兄弟さんなだけあって」
「どうかな? タク兄はいつも僕の一歩先を行ってるからよくわからないひとだよ」
「お兄さんみたいな存在なんだね」
「どうかな? まあ、年上の従兄弟だし近くに住んでるからね」
湖西は隣でもうひとつの玉ねぎを剥き始めた。
「僕はさ、ただ名璃子ちゃんを危ない環境に置きたくないんだ。下の階が溶けてるビルなんてもしも地震でも来たら」
玉ねぎはいつでも目にしみる。自然、涙が頬にあとを残す。
「玉ねぎに弱いんだね。ほかのひとに代わってもらえばいいのに。渡辺さんは?」
「そうだね。湖西くんが手伝ってくれてるから大丈夫。今日はね、お肉もらったから牛丼。すごいでしょう? 紅しょうがはないんだけどね」
笑顔を作る。ちょっと不自然なくらいにくっきりと。
湖西はわたしの笑顔を受けて笑った。彼は少し神経質になり過ぎているんじゃないかと感じた。もっと肩の力を抜いて、そんな感じでいいんじゃないかと思った。
ならわたしは?
わたしはパパの前でどんな顔をしたらいいんだろう。
いつも約束して会う時みたいに楽しそうなふりを装えばパパもいつもみたいに笑うんだろうか?
イケメンだったパパもよく見たら目じりにシワが目立った。わたしはいままでなにを見てきたんだろう?
と同時に、パパがこうして無事でいるならママだってどこかで立ち往生してる可能性が高いと思う。
ママ。わたしがいないとさみしいかもしれない。
「うぉー、牛丼!」
拓己さんと佳祐の声が重なる。わたしは顔が赤くなったのを感じて、恥ずかしくなって下を向く。
「あの、お肉、いただいたので」
「こんなのずいぶん食べてないよ。吉牛で食べたきりだよ。おっさんだってそうだろう? 毎日俺と一緒だったんだからさ」
「あのー、向こうでは具体的にはどんなものを?」
「え? ああ、俺、元々
カタン、と箸を置く音がした。綾乃は箸をそろえるとごちそうさま、と小さな声で言って走っていってしまった。
「綾乃! ねえ、追いかけなくちゃ」
「まあ、とりあえず座りなよ」
立ち上がったところを拓己さんに腕を掴まれてイスに戻される。どうしたのかわからない。向こうにいる間になにかあったのか。
すっかり笑わなくなってしまった綾乃が心配になる。
「綾乃ちゃん、一応食事は食べて行ったから大丈夫だよ。まぁ、綾乃ちゃんのことは少しそっとしてあげなよ」
「?」
「それより牛丼を堪能しよう。『いただきます』がこんなに神聖なものだったなんてさ」
食後の片付けはみんながやってくれたので、急に手持ち無沙汰になる。
誰もいない教室でひとり、机に突っ伏して脱力する。
外はそろそろ闇がやって来そうな雰囲気で、夕焼け雲がグレイに染まっている。
誰かが開けたままの窓から不意に強い風が吹いて、カーテンが舞い上がる。
「名璃子」
顔を上げて相手を確認する。本当は声だけでもわかる。そこには佳祐がいた。
「戻るのが遅くなってほんとうにごめん。いつからオレの体はこんなにやわになったんだよ、って感じで情けないよ。ほんとうにごめん」
「いいよ、そんなに謝らないで。わたしもあんまり看病してあげられなかったし。あの時隠したりしないでみんなに言って、しっかり休ませればよかった」
もしくは、行く予定を体力が回復するまで待たせればよかったのかもしれない……。
佳祐は机を避けるように後ろの扉から入ってきて、わたしの席にたどり着いた。そして恐る恐る、わたしの方に手を伸ばした。まるで迷っているようだった。
「オレを責任感のない男だと思うかもしれない。それでも気が付いたことを気付かなかったことにはできない。オレがいちばん大切にしたいのは名璃子だ。もう間違えない」
「だって間違いだなんて」
「間違えた。名璃子が綾乃と付き合うことを勧めてきたから、名璃子はオレをそういう対象として見てないんだと思った。オレはそれならと思ったんだけど、そこが間違いだったんだよ。自分の気持ちが大切で、名璃子がどう思ってるのか、綾乃がどう思ってるのか、それは関係なかったんだ。馬鹿だった」
頭の中が空洞になって、そこには水琴窟のように水が美しい音を立てて滴っているようだった。なにかキラキラしたものに胸が満たされていく。
いまなんて?
「拒絶されても仕方ないよ。……例え名璃子が湖西をすきでも、その時は一歩下がってお前を見てる。覚悟はできてる」
「いきなりどうしちゃったの、やだなぁ。驚かせるつもりなら、もう十分にびっくりしたから嘘だって言っていいよ。綾乃、泣いちゃうよ」
「……もう泣かせたよ。熱が高くてもうダメだと思った時、名璃子のことしか考えられなかったんだ。――すきだよ」
両肩に手を置かれて佳祐の顔がどんどん迫ってくる。このままだと……。
ひとの唇の感触を初めて知った。
わたしは硬直してなにも言えなかった。目を閉じることも忘れた。吸い込まれるように佳祐の瞳を見つめ続ける。彼は曖昧に笑った。どこか眩しいものを見ている時の目に似ていた。
「想像より柔らかくてびっくりした」
わたしは口を両手で押さえて、それで――ひどく後悔した。
「泣いてるの?」
「泣いてない。ただ」
「ただ?」
「……ただ、こんな時なのに友だちを裏切るなんて最低だよ、わたし」
どこまでもひたむきに佳祐を追う綾乃に嫉妬していたのは本当だ。誤魔化しようもない。
だけどこんな混乱した状況の中で、自分だけしあわせを感じるなんて許されないことだ。
「それでも、名璃子だけがすきだよ。信じてよ」
佳祐はもう一度、わたしに口付けをした。それは触るか触らないかといったくらいの、やさしいキスだった。
わたしはそれを拒まなかった。
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