3-(7)
唇が離れると、それまで離れていた距離はぐっと近づいた。わたしの心は急速に佳祐を求めた。
安直だ。
小さい時からいちばんよく知っている相手と恋に落ちるなんて。
『恋』……?
「もう怖い思いはさせない。これからはいちばん近いところできっと守るから」
わたしを抱きしめた佳祐の声が耳元にくすぐったい。こんな時に、こんなこと。
もしもこれが全部夢だったらどうしよう? わたしはきっと自分に呆れる。友だちの彼氏を取るなんて自意識過剰な女の考えることだって。
「OKだと思っていい?」
「……ごめん、まだちょっと」
そっか、と言って彼は上体を起こした。考え事をしている。次第に闇が空を侵し始め、彼の輪郭がぼんやりしてくる。
「いきなり言われても『はい』って言えないよな。それはそうだ。……でもまだ突っぱねないでいてくれる?」
「突っぱねてないよ、その、ちっとも」
声はどんどん小さくなって、恥ずかしさで爆発しそうになる。『キス』とか。そんなものがこの世にあるなんて、まだまだそれを知るのは先のことだと思ってたのに。
どうして強く拒絶しなかったのか、自分で自分がわからない。理性は?
「佳祐が綾乃と付き合い始めて、ずっと本当はさみしかったんだと思う。それでこんなことになって、やっぱりわたしが頼りにしたいのは佳祐だって思った。でも佳祐は綾乃をいちばんに思ってるんだろうと思ったし。仮にわたしが佳祐をすきだとして、それでも綾乃のことをなかったことにするのは」
「名璃子はそういうヤツだよな。オレは綾乃に自分の気持ちを全部言った。笑うかもしれないけど、こんな世界でこんなに熱出してもう死ぬかもなぁーって思ったらすごい怖くて。もし死んじゃうなら名璃子にせめてもう一度会いたいって、そう思っちゃったんだ。……オレは冷たいと思う?」
わたしが次の言葉を言おうと小さく息を吸った時、誰かが教室に入ってきた。わたしは後ろのドアを振り向いた。
「冷たいでしょう? 渡辺さん、ずっと泣いてる。一度いいって言っちゃったんなら取らなくちゃいけない責任があるんじゃないかな? 少なくとも僕はそう思うよ」
堂々とした大きな声で、湖西はそう言った。そこには憎悪さえ混じっていそうだった。湖西こそ、冷たい目で佳祐を見ていた。
「窪田くんの軽率な行動で、渡辺さんと名璃子ちゃんの友情はもう回復不可能だよ。名璃子ちゃん、行こう。向こうでみんなで話し合うって」
みんなでと言われれば行かないわけにはいかない。佳祐はわたしの顔を見ようとはせず、足早に教室を出て行った。
湖西とわたし、ふたりだけがそこに残った。
「名璃子ちゃん、考えてみて。この世界の始まりは僕と名璃子ちゃんからだったってこと。それが運命なんだよ。もしも窪田くんのことを思う気持ちがあっても、それは幻だよ。或いは気の迷い。渡辺さんのこと、放っておけないでしょう?」
「この世界?」
「水に包まれた世界。名璃子ちゃんだってあの時、僕たちふたりしか世界にいないんじゃないかって思ったんじゃない? だからみんな幻なんだ。いまでも僕らはふたりきりなんだ。みんなの言うことを簡単に信じたらいけない。思い出して、ふたりでピアノを弾いた日々を」
それだけ言うと湖西はわたしに手を差し伸べたので、わたしはその手を取らずにはいられなかった。
当たり前のように手を引かれて、当たり前のように廊下を歩く。
どっちが本当なのかわからなくなる。
「簡単だよ、昇は名璃子ちゃんがすきなんだよ」
駅に移動するかどうかを話し合うと、また湖西が猛反発した。
それに対して拓己さんは意地の悪い笑いを浮かべてそう言った。
教室には全員が揃っていた。わたしたち高校生と、拓己さんと、パパ。
拓己さん以外はなにも言いそうになかった。まるでお通夜のようにみんな押し黙っていた。
「だから言ってるじゃないか。ここの方が安全なんだよ。あんなに不安定な場所に本拠地を移すわけにいかないよ」
「不安定な場所ってどういうことだよ」
「薄々気が付いてるんでしょう? ビルも、ホームも線路も、水に溶けかかってるってこと」
「どういうこと?」
「……少しずつ沈んでるって感じかな。水深が浅い時でも。そうだな、危ない場所ではあるかもしれない。けど一度は行ってみない? 名璃子ちゃんにも少しはいい思いさせてあげたいし」
確かに綾乃は行く前と全然違う服装だった。ジャージではなくて、Tシャツにパーカー、膝丈のパンツ、綾乃のすきそうな服装ではなかったけど明らかに新しい服だった。
「……名璃子に、新しい服持ってきたよ」
「ありがとう」
ありがとう、そのセリフをどんなふうに伝えたらいいのかまったくわからず、結局ぎこちなく伝えることしかできなかった。
綾乃もひどく緊張しているようだった。
「向こうに行けばお湯も出るし、ここよりマシなものを食べられるし、フカフカのベッドもあるんだ。もし本当にあのビルが溶けてなくなるなら、その前に一日だけでも名璃子ちゃんにいい思いをさせたいけどなぁ。な、おっさん」
パパは始終伏せていた目をふっと上げて、躊躇いがちにわたしを見た。
「そうだな、物質的な豊かさは向こうの方が上だ。名璃子もそれを享受する権利があると思うよ。この子は自分からは欲しがらないから、みんなで賛成してあげてほしい」
胸がドキドキした。
パパの中のわたしがどう見られているのか、初めて垣間見た。そしてパパがわたしをどう思っているのか。すきでいてくれているのか、それとも鬱陶しいのか、それすら、いままではよくわからなかったのに――。
「じゃあビルが溶けて消える前に早速明日、出ることにしよう」
ちょっと待ってよ、と湖西が止めようとしたけど、拓己さんはさぁっと潮が引く時のようにみんなに寝るように促した。
ふと目が合ったパパはわたしを見て、ここに来て初めて笑った。
「名璃子も本当に女子高生なんだな」
「いままではそう思わなかったの?」
パパはわたしの短くなった髪の先に触れた。
「思わなかったよ。どんな時でも、名璃子は私の小さな名璃子だ」
おやすみ、と言うと暗い廊下をみんなと歩いて行ってしまった。
いまのわたしは本当に大きくなったんだろうか? それともまだ心は子供のままなんじゃないだろうか?
細いブレスレット。
チラチラと目の前で揺れたそれが忘れられない。つけていたひとの顔は忘れてしまったのに。
『恋』をすると、誰かが誰かのものになるの?
パパが、あのひとのものになったみたいに。
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