4-(1)

 まるで意地悪をしているかのようにその朝、水嵩みずかさが減っていた。

 このところの高水位のせいか、坂の下には小さな砂浜ができていた。水は気持ちよく凪いで、ゆったりと波が行きつ戻りつした。

「水位、どれくらいある?」

「脛くらいかなぁ」

「みんなでボートに乗るのは無理かな、これは。底がついちゃうかもしれない。かと言ってまさかお天気待ちってわけにもな。ここではほとんどがよく晴れているけど、一度降り始めると手の付けようがないし。この間の濃霧もひどかったな。どうしようか? アウトドアする者から言わせてもらえば、これは歩ける水位じゃないよ」

 みんな唸るしかなかった。

 確かにあの雨の日から数日経過したから、水位が下がっていても仕方ない。それにしてもここの水位は気まぐれだ。


「分かれていくのはどう? 筏はふたつあるしね」

「ふたつあるの?」

「あれ、湖西に聞かなかった? そっか、なかなか帰れないから迎えが来るかもと思ってたけどそういう理由」

「まだ行くほどの日数だとは思わなかっただけだよ」

 拓己さんがひとつ大きなため息をついて、「ちょっと考えるか」と言った。


 探す間もなく、湖西は音楽室でピアノを弾いていた。古いYAMAHAのピアノ。それを彼は感じるままに歌わせる。

「すごいね、ショパンの『革命』。わたしには一生弾けない」

 激しいその曲が終わると、わたしは手を叩いた。

 祖国の革命を思って書かれた曲。うねるような旋律に激情が感じられる。

「まさに僕にとってはいまが革命って感じ」

「どんな意味?」

「……名璃子ちゃんがせっかく手に入りそうだったのに、するりとほかの男に持ってかれるなんてさ。名璃子ちゃん、あの霧の深かった朝、絶望から立ち上がった時に僕といることを決意したでしょう?」

「……そうかもしれない」

「だけど選択肢が増えた。ふたりきりじゃなくなって、渡辺さんも下りて。もう僕といる意味はない」


 わたしは彼の心の底まで見てやろうと、目を凝らした。長いまつ毛に縁取られた黒い瞳は濡れているように見えて、思わず気持ちが後ずさる。

 ……このひと、口ではこんなことばかり言ってるけど傷ついてるんだ。なら、どうしたらいい?

「窪田くんと行っておいで。僕はここでいつも通りピアノを弾いてるから。渡辺さんの心を癒すために弾くよ。またミニコンサートだ」

 彼が聖人なのか、それとも悪魔なのか、ピアノを通すとわからなくなる。わたしが躊躇っている間に彼はもう流れるように三拍子のやさしい夜想曲を弾いていた。


 音楽室を出て、その部屋の前で窓辺から駅を見ていると誰かがやって来た。

 綾乃だ。

 帰ってきてからずっと目印のツインテールはやめて、首の後ろで髪をひとつに束ねていた。まるで、目立たないように。

 向こうもわたしに気がついて、気づいた同士は知らないふりはできなかった。

「湖西くんは中にいる?」

「いつも通りだよ」

 綾乃はそのまま進んできて音楽室のドアに手をかけた。そして、そこで止まった。


「向こう、いいところだったよ。MUJI、レトルトもあるけどかわいい服も置いてあるし、スニーカーとか靴下、もらってきちゃった。あとね、GUが沈みかけた二階にあったよ。変わってなければ名璃子の好きな服もあると思う。わたしは今回は行かない」

「綾乃」

「行って! 行っちゃって! ふたりが目の前にいなければその間にわたし、少し気持ちに整理つくかも。ふたりきりは危ないかもしれないから拓己さんも連れていけばいいじゃん。拓己さん、アウトドア本格的にやってるみたいで頼りになるよ」

 言いたいことを言うと、綾乃は吸い込まれるようにピアノの元に行ってしまった。防音室のピアノの音は漏れてこない。ふたりがどの曲を楽しんでいるのかはわからなかった。


 トイレ用の水は汲み終えたようでそこには拓己さんしかいなかった。

「名璃子ちゃん、昼は俺が作るからさ」

「拓己さんが?」

「おう、得意なんだ、こう見えても」

 今日は日差しが一段ときつい。日陰で涼んでいたようだ。拓己さんは壁にもたれてしゃがんでいた。

「ひとりで毎日食事作るの、大変でしょう?」

「慣れてるんで」

「あー、お母さん、働いてるんだよね。そうか、お母さんの分も毎日食事の支度して待ってるんだ」

「まあ、そんなとこです」

 どこまで事情を知っているのか、拓己さんはわたしがママとふたり暮しだということをすんなり飲み込んだ。

 パパがそう簡単に家庭の事情を話したりしないはずだと思ったけれど、パパだってあのホームに拓己さんとふたりきりじゃ、普段話さないことも話したかもしれない。


「名璃子ちゃんさ」

「はい?」

 んー、と拓己さんは天井を見上げてなにかを考えていた。だからしばらくの間、次の言葉を待たなければいけなかった。

「俺が言うことじゃないか。でもさ、おっさん、まだ名璃子ちゃんのパパだってこと間違いないよ」

 拓己さんの言葉の意味することが消化できなかった。それを考えているうちに拓己さんは立ち上がって、「よし、買い物に行くか」と言った。


「こう、行く前にだな、α米ご飯をセットしてだな」

 α米はお水でもお湯でも食べられるけど、三十分から一時間ほど置いておかなければならない。拓己さんの言う『セット』とはそのことだ。

「よし、買い出しだ。名璃子ちゃんがきちんと管理してるからいろいろ揃ってるけど足りないものもある」

「あ、はい」

「佳祐、お前暇そうだな」

「水汲みしたじゃないですか?」

「お前、荷物持ちな」

 なんだか不安な三人での買い物になった。


 歩く道みち、拓己さんは面白い話を聞かせてくれる。わたしも思わず笑いがこぼれてしまう。

「いいか? 人間は閉鎖的状況下ではストレスが溜まるんだよ。そうだろう? で、それをどうやって解消するかってーと、佳祐みたいに体を動かすのも良し、昇みたいにピアノを弾くのも良し、なにか楽しいことを見つけるってことだ。――名璃子ちゃんは見つかった?」

「わたし、そういうの下手で。だから、湖西くんにピアノを教えてもらってたんですけど」

「すっきりした?」

「んー、楽しかったけどすっきりかどうかはわからないかな。なかなか湖西くんみたいに上手く弾けないし。なんかこうなってからずっと緊張してて」

「そう! それが当たり前」

 拓己さんはわたしのことを思い切り指さした。

「俺から見たら名璃子ちゃんは真面目ちゃんだからなー。おっさんも大概だけどね。今日は正しくストレス解消しよう」

 正しいストレス解消ってなにかな、と考える。

 目が合った佳祐もきょとんとした顔をしている。

 やっぱり大学生って、すごい大人なのかもしれない。

 先生たちは「君たちもすぐに受験生だ」って口を酸っぱくして言っていたけど、大学までの道のりはわたしにはとても遠く見えた。

 拓己さんみたいには簡単になれそうにないから。

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