3-(4)
翌朝はよく眠れないまま朝を迎えて、ひとり、坂下の波打ち際まで歩いて行った。
こんなに人恋しいのはいつ以来だろう? ひとりでいることがこんなにも心細い。
……綾乃のようにすがりついてでも一緒に行った方がよかったのかもしれない。いまさら思っても仕方の無いことだ。
第一、わたしにはとてもできそうにない。
今日は世界のすべてがミルク色に包まれて、坂を下りれば下りるほど、その濃さは増していった。
昨日の快晴から一転しての夜の涼しさで霧が出たらしい。濃霧の中からチャプン、チャプンと音が聞こえてきた。
水辺ぎりぎりまで近寄って、水中に手を入れる。指の間を水がすり抜ける。水底まではやっぱり手が届かない。
念の為にタオルも持ってきた。
ローファーを脱いで、靴下も脱ぐ。
そーっと指先から足を水につける。
水はまだ十分な量を保っていた。わたしは歩みを進める。多少濡れても構わない。
水面と霧の間には確かな線引きがあって、そのふたつは交じりそうで反発しあっているようにも見えた。
魚はいない。サラッとした細かい砂が足の指をくすぐる。そして野鳥もいない。我が物顔をした大きなサギのはばたきも聞こえない。
……一体、ここはどこなんだろう?
本当に世界は水に溶けるように無くなってしまったんだろうか。
助けて。
誰かここを壊して。
それでないならわたしをみんなと同じように消して。
同級生や先生や、パパやママのように、わたしも消して。
わたしは歩みを進める。
水深が変わることはない。それでも。
一歩一歩、確かに岸辺から遠ざかる。
そのうち霧でなにも見えなくなる。わたしが下りてきた坂道も、大きな学校も。
……駅のホームも。
ミルク色の霧の中で、わたしは水の中に沈んだ――。
ゲホッ、と大きな咳が出る。まるで嘔吐しそうになる。
気管に入ろうとした水をすべて吐き出すまで咳は続いた。苦しくて、胸が潰されそうだ。
沈んだのは自分からだった。わたしの内側からすべてを壊してしまいたかった。こんな浅い水の中で、自分の命すらままならない。
それなら、どうしたらいいの? どうしてまだここにいるんだろう、わたし。
「名璃子! 名璃子ちゃん!」
ぼやけた風景の中、バチャバチャと静けさを乱す音を立てて彼は走ってきた。わたしから彼が見えないのに、彼にはわたしが見えるんだろうか?
「名璃子ちゃん、返事をして!」
くぐもった声で呼ばれる。
もういい、疲れた。放っておいてほしい。ひとりにしておいてほしい。
あちこちで水音がする。
咳き込む。
馬鹿なわたしを彼は見捨てないつもりだ。その音は近くなり、遠くなり、決して絶えることはなかった。
「……湖西くん」
バチャッ、という音がして一瞬彼の動きが止まった。彼の立てた小さな波紋がわたしのところに届く。
「……湖西くん」
「名璃子ちゃん!」
ようやく彼はわたしを見つけたようで、水しぶきをあげて重い水の中を走ってきた。
「よかった! あんなところに靴を脱いでいくなんて」
「……ごめんなさい」
「いいよ、謝らなくて。君の気持ちを読み取れなかった僕が悪いんだ。よかった、本当に何事も無くて……」
頭の後ろに、ピアノを弾くひと特有の大きな手のひらをあてがわれて、彼の肩のところに顔をぎゅっと押し付けられる。彼の肩が濡れてしまう。
どうやらわたしはまだ生きているらしい。この得体の知れない世界で。
学校の中はいつも通り静かだった。
落とした雫の一滴が立てる音が、いつまでも反響しそうな静けさだった。
湖西が自分も濡れながら、わたしを肩に担ぐようにして学校に連れ戻した。そしてまた教室に逆戻りだ。
「怒らないの?」
彼はわたしによく乾いたタオルを渡すと、少量のお湯を沸かし始めた。
「どうして怒るの? 名璃子ちゃんが、窪田くんたちが行ってから沈んでたのはわかってたんだ。気分を変えてあげられなかった僕に責任があるんだよ」
「責任てなんの?」
「名璃子ちゃんをしあわせにしてあげる責任」
「…………」
佳祐に頼まれたのかな、と思った。それにしてもわたしをしあわせにする責任なんて、ずいぶん重すぎる言葉だ。
そんな言葉を背負って、彼は重くないんだろうか?
「大切にしてあげられなくてごめん」
「どうして謝るの? 勝手なことをしたのはわたしだよ?」
「名璃子ちゃんは悪くないんだ。だから悲しそうな顔をしないで。僕だけじゃダメなのかな? 窪田くんたちがいないと、やっぱり笑ってくれない?」
わたしたちが初めて一緒にコーヒーを飲んだビーカーで湯気がたち始めた。アルコールが入ってるランプの数もずいぶん減った。
水とお米があればある程度長い間、ふたりきりならしのげるかもしれない。けど、たぶんひとは植物と違って水と米だけというような少ない物質だけでは生きていけないんだろう。
現にわたしの体はもう死にたがっている。
熱いコーヒーが体の芯を通る。水に凍えた体が徐々に生き返っていく。持ち主の気持ちに逆らうように、次第に。
「もう終わりにしたいと思ったの。疲れちゃった。……助けは来ないし、佳祐たちには置いていかれちゃったし、わたしには残された未練もないもの。ここだって、いつまでも保つわけじゃないよね?」
それは、と湖西は曖昧に口を動かした。事実、わたしたちだけでなんとかなる問題じゃないんだ。
「なんとかするよ。そうだ、もしもの時のためにしないことにしていたけど、よその家の使えるものを探してみたらどうかな? もしかしたらプロパンガスの家もあるかもしれないし、蓄電器のある家もあるかもしれない。実際、防災倉庫にはガソリンで使う発電機はあるんだ。それを普通の家庭に持っていったら、お風呂に入ることもできるかもしれないよ。そういうのはどうだろう?」
「……よその家? そうだね、もうわたしたちに選択の余地はないのかも」
「ここでだってまだ暮らせるけど、『家』の方が名璃子ちゃんを安心させられると思うんだ」
他人の家に上がり込んでまで自分が生きていくという状況が飲み込めなかった。
誰かの生活の形跡をふみにじって笑える自信はなかった。そんなのは、惨めだ。
「ごめんなさい、湖西くんだって不安だと思うのにこんなことして。もうしないって約束する。佳祐たちのこともしばらく考えないようにする。野菜でも育ててみよう? それが育つまでに事態が好転するかもしれないし、そうじゃなくてもまだわたし、ここにいられるよ。もう心配しないで、どこにも行かない」
自分から手を伸ばした。
向かいに座った彼の冷たい頬に触れる。
ああそうだ、このひとも生きているんだ。
お昼になる頃には霧はすっかりどこかに消えてしまった。
わたしたちは仲良く――どちらかが逃げてしまわないように、どちらからともなく手を繋いでスーパーに行った。
家庭菜園を作っているひとのための野菜の種のささやかなコーナーがあった。ふたりでひと袋ずつ裏側を見て、栽培の仕方を確かめる。いくつかの種を手に入れた。
それから久しぶりのスーパーで、お菓子を見繕う。お菓子は綾乃の担当だったので棚をよく見たことがなかった。キレイに銀色の箔押しをしたチョコレートがあって、そのパッケージに見とれる。こうなる前はよく食べていたものだ。
「チョコレート? 溶けてない?」
「うん、大丈夫そう」
スーパーを出てチョコレートを開ける。パキッと割って欠片を湖西に渡す。そして自分もそれを口にする。
甘い口溶け。ミルクチョコレートが口の中全体に行き渡るように甘く香る。生きている証。
これをよく食べたのは、あのしおさい公園のベンチだ。懐かしい。
ずっと遠くに来てしまった気がした。
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