2-(7)
突然かけられた声に、なんて答えたらいいのかわからなかった。
「大丈夫、なにもしないから。なにかするなら最初の晩にしてるよ」
思えば最初の日、このひとと同じ部屋で一夜を過したんだ。
あの時は世界にたったふたりきりで、どうしたらいいのか、なにをすべきなのかまったくわからなかった。ただ体が泥のように重くて、男の子と同室で眠ることになんにも抵抗を感じなかった。
だって、よく知らないこのひとしか世界にいなかった。
あの強い日差しの中で、くるぶしまで水に浸かって、ふたり、倒れるように歩いた。
そう思うと、このひとは全くの他人というわけではなくて、命を分け合った者同士のように思えてきた。
綾乃のところから毛布を数枚もらって、湖西の隣に座る。上履きを脱ぐといいよ、と言われて不思議に思うと湖西は毛布を床に敷いた。
招かれてそこに座る。
靴下も脱いじゃえば、と言われて、さっき足も拭いたしいいかな、と思う。足裏に柔らかい毛布の感触。肩から彼が毛布をかけてくれる。
彼に一枚、わたしに一枚。
ここは安全な隠れ家だという気持ちが次第に強くなる。外の雷は窓の下にいるから見えない。緊張が解けていく。温もり。
眠りが……静かな波のように訪れて、体の力が自然に抜ける。誰かの温もりと心音。髪を指で梳くのは誰……?
――なんだ、名璃子は寝ちゃったのか。
――疲れたんでしょう? 動物園、大好きよね。
ぼんやり開いた瞳の奥から、運転席に座るパパと、助手席に座るママが見える。
パパもママも姿勢を正して、フロントガラスの向こう側をじっと見ていた。
――もう少しね。
ママの問いにパパは答えない。ハンドルを真っ直ぐに握っている。
――嫌なことは確かに十分あったけど、なにも知らなかった時は楽しいこともたくさんあったのよ。本当よ。
「……青山さん」
ごく近いところで声がする。佳祐? ううん、違う。この声は――。
「湖西くん? どうかした?」
どうかした、はわたしの方だ。気がつけば湖西の肩にもたれてぐっすり寝ていた。
やってしまった。
「疲れてるんだよ。元々、精神的に疲れてるところに今日の机運びでしょう? 眠くなっても仕方ない。もう少し寝ててもよかったんだけど、ちょっとうなされてたみたいだから」
「え? なにか言ってた?」
「……いや」
湖西の含みある答えに、不安を覚えた。ぼんやり、夢の中の光景がよみがえってくる。
やだ、またパパとママの夢だ。
ここに来てからこの夢ばかり。
ここは本当に現実なのか、それともわたしはママを待っている間にうたた寝をしてしまって夢を見ているだけなのか……。
「なにか話をする? それとももう少しうとうとする?」
「それじゃあ、少し話してもいい?」
「もちろん」
後ろの方では雷の音は次第に遠ざかっていくようだった。ゴロゴロというなにかが思いっきり転がるような音が小さくなっていく。
「こんなこと聞くのはどうかと思うけど、二人の時にしか聞けないから。……どうして湖西はあの日、制服であんなところにいたの?」
「それは――」
口をつぐんだ彼はうつむいて、立てた膝に顔をつけた。
「それは、あの日、学校に行こうと思って行けなかったからだよ」
「……無神経なことを聞いちゃってごめんなさい」
「いいんだよ、たまにあるんだ。今日こそ学校に行こうと思って家を出るのに、どうしても足が進まなくて、そんな日はしおさい公園に逃げるように行くんだ。あそこは、なにもかも忘れられるような気にならない? 時間が止まったようにいつもすべてが一緒で――。ああ、これは僕の勝手な思い込みで、青山さんにとってはまた違う印象だと思うけど」
「そんなことない、同じかもしれない。わたしもあそこにいる時は気持ちが安定するっていうか――」
わたしたちが黙ってしまうと、教室の中では綾乃の寝息だけが規則正しく聞こえた。
そこには本当の安らぎがあるように思えた。
安定した心、安定した思い出。
「時間は止まらなかったね」
「そうだね、思わぬ方向に動いたね」
笑えない冗談に苦笑していた時、ドアがガラガラと音を立てて引かれた。
「名璃子? 湖西、なにしてんだよ、名璃子になにかしたのかよ」
「ねえ、なにもないよ。わたしが雷怖がるから湖西くんと話をして」
「……髪が乱れてる」
肩に寄りかかって寝てしまったことを思い出して、頬が熱くなった。
佳祐はツカツカと教室に入ってくるとわたしの手をぐいと引いた。長身の佳祐に手を引かれると一気に体重のバランスが変わって、腰が浮く。それはいままでなかったほど、強い力だった。
手首が痛い。
「名璃子、もう少し警戒しろよ。こんな時だって男とふたりきりは危ないんだよ。言われなくたってわかるだろう?」
「それはわかってるし、ここには寝てるけど綾乃もいるし」
その時奥から、ううん、という綾乃の声が聞こえてわたしたちは声を抑えた。
「でも本当に湖西くんはわたしのためにこうしてくれただけなの。変な誤解して怒らないで」
「……怒ってるわけじゃないよ」
はぁ、と手首を離して佳祐は息を吐いた。
「なんでもない、早とちりして悪かった。でも名璃子はオレにとって大切な存在だから、雑に扱ってほしくないんだ」
「青山さんを傷つけたりしないよ、決して。僕にとっても青山さんは特別なひとだから」
手首に痛みを感じながら立ち上がった。そして、佳祐の目を見て、わたしはそう言わざるを得なかった。
「湖西くんがわたしをどう思ってくれてるかはわからないけど、いつもやさしくしてくれてると思う。ありがとう。それから佳祐。佳祐は、わたしなんかより綾乃を大切にしてるとは思うけどもっと大切にしてあげて。大丈夫そうに見えても女の子なんだもん、やさしくしてあげて。きっと無理してる」
わかったよ、と佳祐は言ってすっかり温まったタオルをそっと渡してきた。
薬が切れてまた熱が上がってきたのかもしれないと思って、さっき強く言ってしまったことを後悔する。
それでも、それ以外になんて……。
綾乃は純粋に佳祐が好きなんだ。幼い時から、ずっと。
綾乃はちょっと揺するとすぐに起きた。そして天使のように微笑んだ。
「ぐっすり寝ちゃった。雷が鳴ってるのにおかしくない? お腹空いちゃった」
場が和む。
こういうところが結局憎めない。
備蓄用のお米、
適当な鍋にお湯を沸かしてご飯を炊いて、残りのお湯でレトルトを作る。
そして、もう抵抗がなくなってしまったのでそのお湯でお味噌汁を作る。具はなんでもよくて、時にはインスタントだったり、まだ日持ちしてる野菜だったり、その日の気分だった。
今夜は暗くなってしまったのでレトルトのカレーと、玉ねぎでコンソメスープを作った。
「いただきます」
なんでも明るいうちに済ませた方がいい。電池がもったいないから。
「毎日カレーでもいい」
綾乃はスプーンを持って美味しそうに笑った。本人もちょっと恥ずかしそうだった。
「カレーならまだいくらでもあるよ、安心して」
みんな、どっと笑った。カレーなら確かに山ほどストックがあった。
雷こそ遠くへ行ってしまったが、雨はまだ激しく降っていた。雨が窓に打ちつける音と、水が波打つ音。それらの自然音がわたしたちを包んでいた。
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