2-(6)

 低く垂れ込めた雨雲がとうとう抱えきれない雫をパラパラと落とし始めた。


 ――結局、SOSは作り終わらなかった。


「佳祐、止んでからにしよう? 通り雨かもしれないし、風邪ひいたら大変だよ」

 雨の中、机を動かしていた佳祐はこちらを向くと走ってきた。

「悪い。ひとつのことに熱中するとほかの事が見えなくなるの悪い癖なんだ」

 佳祐がタオルで全身を拭く。

 綾乃が背中まで拭いてあげる。

「お湯沸かす。佳祐はそれで体を拭いちゃって」

「ガスもったいないよ」

「風邪ひかれるよりいいよ。みんなも温かいもの飲もう」

 心配なのにやさしい言葉が出てこない。

 雨と一緒に肌寒さが増してきた。雨粒は大きく、風を伴って窓ガラスに強く打ちつけた。


「今日はせっかく『シャワー』の日だったのに」

「雨が止んだら浴びられるよ」

 避難生活も長くなって、体を濡れタオルで拭くだけじゃなく、せめて水浴びをしたいということになった。話し合って三日に一度、水浴びをしようと決まった。

 場所はプールのシャワー室で、それが今日だった。

 湖西は穏やかでやさしい。

 綾乃も湖西を兄のように思っているようだ。

 綾乃のところは三人兄弟で、兄がふたり、末っ子が綾乃だ。

 反対に佳祐には歳の離れた妹がひとりいて、溺愛していた。いまもたぶん、顔には出さないけどひどく心配しているだろう。


 教室で一息つく。

 わたしは濡れてしまったジャージの代わりに制服を着ていた。

「ありがとう。ぬるめのお湯でもサッパリした。まだお湯残ってるよ」

「綾乃、行っておいでよ」

 綾乃はわたしの耳元に口をつけてごにょごにょ言った。

 綾乃は『女の子の日』だった。幸い生理用品はたっぷりあるんだけど、体を拭くのは気が引けるので後で顔や手足など気になるところだけ拭くと言った。

「わたし、お先に失礼していいかな」

 もちろん、と湖西が答えた。

 高校生にもなると、男子だってなにを話していたか気がつくんだろう。

 イスに座って少しうつむき加減に綾乃は「えへ」と言った。湖西が「もう一杯なにか飲む?」と聞くと「うん」と恥ずかしそうに答えた。


 ぬるま湯なんていまのわたしたちにとってはすごい贅沢品だ。

 沸かしたお鍋の中に手をパーにして入れる。

 広げた手のひらからじーんと温もりが体の中全部に広がって、脳髄まで痺れそうだ。

 それとともに『普通』の生活が恋しくなる。シャワーをなんとも思わず出しっぱなしにしてザブザブ浴びていた。このぬるま湯よりも温かいお湯を。

 それがどれくらい罪深いことだったのか、いまになって思い知る。


「お待たせ」

「名璃子ぉ、外、すごい雨なんだよ。怖いくらい」

 教室の窓から見える空も水も、一様に墨を流したような色をしていた。

 その時、紫色の鮮やかな光が走った。

「きゃ」

 思わず耳を押えて座り込むわたしの背中を綾乃がさすった。

「まだ雷ダメなの?」

「嫌いなものは嫌いなの。なんで綾乃は大丈夫なの?」

「だって、暗闇に走る稲妻ってキレイだよ」

 男子ふたりは壁際の席でニヤニヤ笑っていた。

 ……嫌な感じ。

 誰にだって苦手なものがあるに違いないのに。

 いつもはまだ明るい時間のはずが、今日はもう薄暗い闇に侵されている。次第に雷は激しく光るようになって、その度にビクッとする。


「湖西くん、お湯、冷めちゃうから」

 にこりとして、彼は立ち上がるとわたしの肩に手を置いた。

「今夜、雷が止まなかったら、今日はみんな同じ部屋で寝ようか」

 わたしの思考は停止して、湖西の瞳の奥をじっと覗いた。そこになにか混じり物はないかと探したけど、どこまでも純粋な瞳、純粋なやさしさが存在した。

「ひとりじゃないんだよ」

 ぽん、と肩をひとつ叩くと湖西は教室を出て行った。


「やったー! 名璃子、偉い! 雷が鳴り止みませんように!」

「……すぐに通り過ぎるだろう?」

 佳祐は遠い目をして荒れ狂う空と水を見ていた。雷は水面を刺すように真っ直ぐに稲妻を落としていった。

 綾乃が気を利かせて毛布を何枚も持ってきてくれて、わたしたちふたりだけの簡易かまくらを作ってくれる。ふわふわだ。


「名璃子がさぁ、まだ小さい時にうちで一緒に遊んでたら雷が突然鳴り始めて、うちのお兄ちゃんたちが脅かすから名璃子、すっかり泣いちゃって。……あの時、すぐに家に帰れた?」

 綾乃の家はマンションのひとつ上の階だった。

 わたしは階段を一段、一段下りて、自分の家のある階に着いた。

 ところがそこで、雷がそれまでなかった大きな音を立てて落ちて、わたしはしゃがみこんで泣いてしまった。

 つまり、どこへも動けなくなってしまったんだ。

 その時、わたしの家より手前にある佳祐の家のドアが突然開いて急に手首をつかまれた。

 佳祐の家のドアは重い音を立てて閉じた。

「名璃子、牛乳飲む? あっためてあげる」

 わたしは佳祐の家のリビングで丸くなって座り込んで、なぜか牛乳が電子レンジで温まるのを待っていた。

 佳祐はわたしにカップを渡すと、リビングの大きなカーテンを閉めた。


 ちらりと佳祐の方を向くと、過去にそんなことがあったのは忘れてしまったという顔をして稲光を見ていた。

 まだ駅のことを考えているのかもしれない。

 いつからだろう、佳祐が男の子になってしまって、なにを考えているのかわからなくなってしまったのは。

「毛布貸して。隣の部屋で少し寝る。机運んで疲れたから」

 疲労が溜まった顔をして佳祐は立ち上がった。ふらり、とバランスを崩す。

 わたしは恐る恐る近づいて彼の額に手を当てた。

「……綾乃たちに言うなよ。解熱剤飲んで寝るから、名璃子、保健室からこっそり薬持って来て。頼んだ」

 ぼそっと耳元で聞いた声は、ではなかった。それはすっかり男性の声だった。

「やだ、風邪でもひいたのかと思っちゃった。でもバカは風邪ひかないって」

「うるせーよ。適当な時間に起こして」


 こんな猿芝居が通用するのかはわからない。湖西がいたらすべてバレてしまったかもしれない。

 幸い綾乃は疑うことなく「添い寝してこようかな。冗談。疲れてるんだもん、ひとりにしてあげないとね」と言った。

 わたしはトイレに行ってくると言って、こっそり保健室から薬を持ってきて佳祐に飲ませた。

「辛いんじゃない?」

「大丈夫だよ」

「氷はないから冷えピタ持ってきた」

「それダメ。匂いでふたりにバレる」

 そぉっと、再び額に触れる。

 まだ薬が効いてないせいか、呼吸が浅い。

 ベランダに出てペットボトルの水でタオルを濡らして絞る。それを彼の額に乗せた。

「あー、助かる。持つべきものは名璃子だな。夕飯の支度の前に起こせよ。それから今日の『お泊まり会』はお前たちには悪いけど中止の方向で。湖西にはバレないように別の部屋で寝るから」

 それだけ言うと、目を閉じていた彼の口も閉じた。


 なんでもないふうを装って綾乃のところへ帰ると、綾乃はぐっすり眠っていた。

 たっぷりの毛布と疲れが彼女を眠りに誘い込んだんだろう。わたしはその隣にすとんと座った。


 少しすると湖西が帰ってきて、わたしがひとりで起きていることに驚いた。そして「雷は大丈夫なの?」と聞いた。

「こんなにまじまじと雷を見るのは初めてなの。音はまだ慣れないけど……自然ってすごいなと思って」

 湖西は窓の下に座り込んで楽な姿勢になると「こっちに来ない?」と言った。

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