2-(5)

 気もそぞろのまま、階下に向かう。

 ペタン、ペタンと上履きは気の抜けた音を立てる。

 わたし、なにしてるんだろう? 自分の信条に背いて。本当ならもっと佳祐みたいに情熱的に強く訴えるべきなのに。

「おう」

 一階まで下りたところで佳祐に会った。そこは体育館から校舎への裏口で、プールからいちばん近いところだった。

 ジャージ姿の佳祐は、ふたつのバケツを持っていた。彼はプールから水を汲んできたところだった。

「いつもありがとう」

「なに言ってるんだよ。みんなが使うものなんだから。それに名璃子には食事の支度、してもらってるし。それがオレには一日のうちでいちばん楽しみな時間」

 にかっと彼は笑った。

 まるで普段の時のように心が穏やかになる。佳祐は本当にすごい。行動力もあるし、なにより自分の意見をはっきり言える。それは自分の判断を信じているからだ。


「それにしても名璃子、トイレの流し方なんてよく知ってたよな」

「テレビの防災特集でたまたま見ただけ。地震とか、台風とか豪雨とか、最近多かったから。上手くやれてる?」

「ああ、水を思いっきり落とすつもりでやるのはわかってるんだけど、流すまでは水が跳ねそうでちょっと怖くない?」

「怖い。汚れたくないよね」

 お互いに苦笑する。

 水洗トイレの仕組みは水圧で流すだけなので、トイレ側から水圧がかかるように躊躇わず水を流せばいい。その、躊躇わず、が難しいところなんだけど。


 トイレを流すための水は四人分ともなると生活用水の排水では賄えなくて、プールから水を汲んでプールに近いトイレの前の壁に並べておくことになった。これは主に男子がやってくれている。

 重労働なのに申し訳ないけど、断水で怖いのは水分不足からの便秘だ。こんな時に誰かにお腹が痛くなられても困る。

 便秘薬を使えばいいんだけど、そうしたら余計に流す回数が増える。

 小なら数回に一度流せばいいけど、大ならそうはいかない。衛生的にも毎回流したい。


「また難しい顔してる」

 言われて佳祐の顔を見る。

 佳祐だってこの数日間ですっかり顔つきが変わった。お調子者、といった彼のイメージがいまでは立派なリーダー的存在になっている。

 綾乃やわたしを十分に笑わせてくれるのはいまも以前も変わらないけど。


「そんなすべてを諦めたような顔、するなよ」

 カチャンと音がしてバケツは床に下ろされ、彼はわたしの立つ階段下の踊り場まで歩いてきた。

 驚いて一歩下がると背中が壁についた。

 背の高い佳祐の右手がわたしの顔の脇にあった。

「……オレが怖い? そう思われないようにずっと気を付けてたのに意味なかったかな。綾乃はけっとこうタフなんだよ。オレはお前の方がずっと心配。こんなことになるならあの時……オレは馬鹿だから」

「やめて。佳祐は間違ってないよ」

「でもそうしたら名璃子のこと、もっと深く考えてやれるのに。誰にも遠慮せずに」

 水置いてくるわ、と軽く身を翻して彼はまた重いバケツを持って行ってしまった。

 行ってしまった……。

 階段の下から二段目にそろそろと腰を下ろす。


 驚いた。

 あんなことを言われるなんて思ってもみなかった。

 確かに間に綾乃がいても、佳祐とわたしの気持ちは繋がってる。それは長くそばにいたからだ。それ以上、それ以下でもない。

 もしも綾乃と付き合ってなかったら? そんなこと考えたこともなかった。


 あの日、しおさい公園のベンチで綾乃が佳祐を好きだと言った時、頬を赤らめて「本気なの」と言った。そういうことに不慣れだったわたしはただ飛び交うカモメたちを眺めていた。綾乃は女の子なんだな、と思った。

 佳祐は佳祐で、わたしからそういう対象として見たことがなかった。ひとをすきになる時には魔法のように「すき」だという気持ちが降ってくるのだと思っていた。

 だから、わたしは綾乃に「応援するよ」と言ったんだ。言葉の重みも考えずに――。


「青山さん、お腹空いたでしょう。水汲み、これで最後だから」

「ああ、うん、わかった。お昼にしようね」

 わたしの心はまだ宙に浮いていて、気もそぞろだった。

「渡辺さんは素直だよね。青山さんも彼女みたいに本当の気持ちを言葉にしていいんだよ。なにかあったら話して。不安なことがある?」

 不安なこと。いちばん不安なのはママのこと。

 でもそれは湖西には話せない。まだそこまで気が許せないとも思ったし、説明するにはわたしの気持ちが拗れすぎていた。

 ママとパパのこと。

 いまのわたしには客観的に誰かに話すことはできないだろう。どちらの気持ちも汲んで話すことはできないだろう。

「家族が心配なだけ」

「ああ、家族か……」

 彼はあまり興味がなさそうに見えた。

 家族の心配をするのは当たり前のことだ。

 それでナーバスになっているなら、納得できたのかもしれない。


「兄弟はいるの?」

「ううん、ひとりっ子なの。湖西くんは?」

「僕には兄がいるよ。もっとも話したりしないけどね」


 湖西の向こうの窓の外はどんどん天気が悪くなって、いまにも雨粒を落としそうに見えた。水音が聞こえる。

 ザブン、ザブン、……。

 不安を煽る。


 期限の迫ったものから順番に菓子パンを食べていく。いつもだったら自分で作ったお弁当を食べている時間だ。

 タコの形のウインナーやふんわり焼いた卵焼き、彩りのブロッコリーはたまに茹ですぎてやわらかかった。

 そういう当たり前のものが当たり前じゃなくなって、いまがある。

 なんとかこの困難を乗り越えてママを助けなくちゃ。例えマンションも干潟もなくても、ママがいればそこはわたしの家だ。


 約束通り、ご飯のあとは屋上に机を運んだ。

 お腹がいっぱいだったのか、みんな、やけに無口だった。

 やることは決まっていたので机を運ぶだけだった。

 机の中に入っていたものは、その机があった場所に荷物を積んでおいた。

 とうとう音を上げた綾乃が「疲れたぁ」と息を切らせて言った時、正直ほっとした。わたしも相当、疲れていた。


「水分補給をしっかりして休憩しようね。おやつにする?」

 それには佳祐が首を振った。

「休憩はしよう。水も飲んで。だけどおやつは後。気が緩む前に終わらせちゃおう。もう少しだ。運びあげちゃったら並べるのはオレがなんとかするから」

 額の汗を佳祐がジャージの袖で拭う。甲斐甲斐しく綾乃がタオルを渡す。わたしはそれをぼんやり見ている……。


 風も吹き始めた。

 あの日から初めての荒天だ。

 佳祐の焦りがみんなに伝わる。水を飲み終えると各自、そろそろと腰を上げて机を運び始めた。

「あといくつかなぁ?」

「少しだよ、がんばって終わらせよう。渡辺さんのアイデア、良かったから」

 湖西はすっかり綾乃の信頼を得たようだ。褒められた綾乃は鼻歌をうたいながら危なっかしい手つきで机を運んで行った。

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